『チ。』を読んでいて素敵なコトバに出会いましたー"文字は奇跡" 。
魚豊先生の『チ。―地球の運動について―』全 8 巻を先日一気に読了しました。最近読んだ本のなかでは 1、2 を争う面白さでまだ興奮しています。そんなわけで昨日に引き続いてこの作品を紹介するブログを書いてみます。
ストーリーのなかで院長の心を大きく揺さぶったのがヨレンタ。彼女は、この作品の中で、「知ること」「学ぶこと」、そして「知識を未来へ残すこと」の意味をもっとも強く体現する人物の一人です。初登場時は 14 歳。教会で働き、優れた数学・天文学の才能をもっていますが、女性であるというだけで研究者として正当に扱われません。自ら書いた論文さえ男性研究員の名義で発表されてしまう。そんな理不尽な環境に置かれながらも、彼女は学問への情熱を失いません。
ヨレンタにとって学問とは、出世や名誉のためのものではなく、「この世界が本当はどうなっているのか」を知りたいという純粋な欲求です。だからこそバデーニやオクジー(知らない方にはなんのこっちゃですが是非読んでみて・・・)と出会い、地動説という危険な思想に触れたときにも、恐怖より知的好奇心が勝ります。また彼女は、「文字」が人間の時間と場所の制約を超えることに強く感動します。自分が直接会うことのできない過去の人間の思考に触れ、逆に自分の考えを未来の誰かへ届けることもできる。人は死んでも、思想は文字によって生き続ける・・・ヨレンタは『チ。』における中心テーマである「知の継承」を象徴する存在なのです。
そのヨレンタの物語をさらに複雑にしているのが、父親ノヴァクとの関係です。ノヴァクは娘を心から愛する優しい父親である一方、仕事では異端者を容赦なく拷問する異端審問官です。ヨレンタは父の仕事の実態を知らず、バデーニとオクジーを親しい仲間として父に紹介してしまいます。それが結果的に彼らの逮捕と処刑へつながってしまうという、あまりにも皮肉な展開を迎えます。
さらにヨレンタ自身も異端への関与を疑われ、苛烈な尋問を受けます。しかし一人の異端審問官の助けによって密かに逃亡。その身代わりとなった遺体をヨレンタだと知らされたノヴァクは、娘が処刑されたと思い込みます。彼の手元に残るのはヨレンタの手袋だけでした。異端者には残酷でありながら、娘を失った父親として泣き崩れるノヴァク。この矛盾こそ、『チ。』が描く人間の複雑さを象徴しています。
それから 25 年。生き延びたヨレンタは、かつて学問することさえ許されなかった少女から、異端解放戦線を率いるリーダーへと変貌しています。もはや彼女は知識を受け取るだけの人ではありません。「伝える側」「残す側」になっているのです。
そして最期、追手が迫るなかでヨレンタは仲間と、地動説を記した本を未来へ残すため、自らその場に残ります。大量の火薬に火を放ち、自爆することで仲間を逃がし、印刷工房を守る道を選ぶのです。そこには偶然、父ノヴァクも居合わせていました。しかし二人が父娘として言葉を交わすことはありません。ノヴァクがその瞬間に彼女だと確信したかはそのシーンでは明示されませんが、爆発後、彼は吹き飛ばされたヨレンタの腕を拾います。そして後の描写では、その腕と彼女の手袋を通して、娘もまた「地獄に堕ちてもいいと思えるほど大切なもの」を見つけたのだと理解したことが示唆されます。
ヨレンタの人生は、決して幸福とは言えないかもしれません。しかし彼女が守ろうとしたものは残りました。父が守ろうとしたのは「既にある秩序」であり、娘が守ろうとしたのは「まだ見ぬ未来へ渡す知識」でした。互いを愛していた父娘が、知らぬ間に正反対の側に立ってしまう。その悲劇を通して、『チ。』は私たちに問いかけます。
人間は何のためなら、自分の人生を賭けられるのか。
ヨレンタはその答えとして、「知ること」と「伝えること」を選んだ人物なのだと思います。
彼女のセリフや生き方はとにかく "刺さる" のですが、そのなかでこんなセリフがあります。
「教会の信徒として、こんな表現を気軽に使っちゃいけないことはわかってます。でも、その表現以外で表せないから言いますけど、文字はまるで奇跡ですよ。
もちろん、救世主様が起こす奇跡とは全く別のものですよ。
でも、本当に文字はすごいんです。あれが使えると時間と場所を超越できる。
200 年前の情報に涙が流れることも、1000 年前の噂話で笑うこともある。
そんなの、信じられますか。私たちの人生は、どうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。
だけど、文字を読む時だけは、かつていた偉人たちが私に向かって口を開いてくれる。
その一瞬、この時代から抜け出せる。
文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなの、まるで奇跡じゃないですか。」
この台詞を読んだとき、私はまず「本当にその通りだ」と思いました。そして同時に、現代科学において「論文を書き残すことができる」ことがいかにありがたいことか、ということに気づいたような思いを抱きました。
診察室・病棟・手術室・救急外来などで用いる知識や技術。そのほかの場所でも日々の生活で行うさまざまな「医療的な選択(塩分をどの程度摂るのか、とかタバコは害悪とか)」。その大元をたどれば、何十年、場合によっては何百年も前の医師や研究者が観察し、考え、記録したものに行き着きます。ヨレンタの言葉を借りれば、まさに「時間と場所を超越」しているのです。
博士論文でも修士論文でも、およそ "研究" と呼ばれるものに携わったことのあるひとなら必ずぶち当たるのが "論文を書く苦しさ" です。施設の倫理審査に通るための書類を作成する、データを集める、解析する、考察を書く、その過程でなんども文献を読み直す、英語を直す、投稿のために目標とするジャーナルに書式をあわせる、共著者から意見をもらう、査読者から指摘が届く、修正してまた直す、ようやく受理されたかと思ったら、最後に校正を行う・・・。
正直に言って、論文を書くことは楽しいことばかりでは全くありません。それでも論文が世に出たときには、独特の喜びがあります。自分たちが考えたことが、活字になった。そして世界中のどこからでも読めるようになった。これは研究者にしか味わえない幸せの瞬間です。
しかもその文章は、自分の手を離れていき、いつか誰かが引用するかもしれない。誰かがその研究をもとに次の研究をするかもしれない。もしかすると何十年後、自分がすっかり現役を離れたあとに、どこかの若い医師がその論文を読むかもしれない。著者本人がそこにいなくても、文字になった思考は残ります。それこそ『チ。』で描かれる世界です。
人は消えても、思考は残ることがある。そう考えると、論文を書くという行為は、「自分の仕事を未来へ送る」ということなのかもしれません。論文は知識を共有するための「手段」です。
ただ、現在の若手医師はあまり論文を書いたり研究をしたりすることに積極的でない、というハナシをよく聞きます(先日、国内における泌尿器科学教室のトップランナーである京大の泌尿器科学教室でもそんな雰囲気が少しあるようです)。論文は最強の知識伝達方法の一つ(査読され、検索可能な形で保存され、国境を超えて参照されるから)だと思いますが、知識や技術の継承方法はそれだけではありません。ベッドサイドやカンファレンスでの教育もありますし、このブログのような方法、さらには SNS も強力なツールになりえます。
これらもすべて「文字になった思考」「言葉になった思考」を次へ渡す作業です。もちろん、エビデンスとしての重みは論文とはまったく違いますが、「自分が知ったことや考えたことを共有する」という姿勢においては、共通していると思います。
ただ、医師は "医学徒" である以上、やはり論文は書くべきと思っています。・・・と言い続けて開業して 3 年半が経過しました。小さなクリニックの院長ですが、書くべきテーマや書くためのアイディアはアタマのなかにいくつかあります。当院からも情報発信することを、遅くとも 2028 年までの自分への義務として課したいと思っています(・・・とここで公表して共有することで自分を追い詰めておきます)。
