たとえ実感として腑に落ちなくても "ものごとを理解したり解決するのに便利だから使う" という姿勢は医師にとって大切だと思うのです。
「2 乗して マイナス 1 になる数学」といえばなんでしょうか。いわゆる「虚数」、imaginary number の頭文字、"i" ですね。学生時代、初めて虚数を習ったときに、「え?どういうこと?」と思ってしまいました。アタリマエのハナシですが、"普通の実数の世界" では、どんな数を二乗してもマイナスにはなりません。3 を二乗すれば 9。−3 を二乗しても 9。ですから、「2 乗すると −1 になる数」と言われても、日常的な感覚からすると、そんなものが本当に「ある」のだろうか、と思ってしまいます。
実際、虚数は数学の歴史の中でも、最初から当然のものとして受け入れられたわけではないようです。16 世紀、3 次方程式の解法を研究していた数学者らの計算の中に、負の数の平方根が現れるようになりました。その後、別の学者がこうした数の計算法を整理し、17 世紀にはあの有名なデカルトが「imaginary=想像上の」という言葉を用いました。当時、「不可能」「理解不能」といった表現まで使われたことからも、現在の私たちが思う以上に奇妙な存在として受け止められていたことがわかります。
ところが、その「なんだかよくわからない数」は消えてなくなるどころか、その後の数学において非常に重要な存在になりました。実数と虚数を組み合わせた複素数という考え方を導入すると、それまで扱いにくかった方程式を非常にすっきり記述できます。そして現在では数学だけでなく、電気工学、波動、信号処理、量子力学など、さまざまな分野で複素数が当たり前のように使われています。つまり、直感的にはよくわからないことと、役に立たないことは同じではない。ということです。
そしてこうしたことは、東洋医学や漢方医学をやっていると似たことが起こります。西洋医学を中心に勉強してきた医師からすると、漢方医学にはなかなか理解しにくい言葉がたくさん出てきます。「気・血・水」「陰陽」「虚実」「寒熱」「表裏」そして「証」。
たとえば「気虚(気が不足している)」と言われたとします。すると西洋医学的な思考に慣れた医師なら、「その “気” というものは、いったい身体のどこに存在するのですか?」「血液検査で測定できますか?」「CT や MRI で見えますか?」「分子生物学的にはどの化学式で説明できそうですか?」と尋ねたくなるでしょう。この疑問は至極もっともです。
実際、「気」という物質が身体のどこかを流れていると解剖学的に証明されたわけではありませんし、「水滞」という病態が "発見" されたわけでもありません。だから、「漢方はなんだかよくわからない」と言う西洋医学の先生の気持ち、院長はよくわかります。自分も西洋医学一辺倒で学んできた医師ですから、その違和感はむしろ自然なものだと思っています。しかし、ここでもう一つ考えてみたいのです。「よくわからない」ということと、「役に立たない」ということは、本当に同じなのでしょうか。
実際の診療をしていると、患者さんは教科書通りの病名を一つだけ持って来院されるわけではありません。「なんとなくだるい」「冷える」「食欲がない」「めまいがする」「頭が重い」「むくむ」「お腹が張る」「天気が悪くなると調子が悪い」・・・。こうした訴えは日常診療では非常によく経験します。もちろん、まず現代医学的な診断を考えることが重要です。貧血はないか。甲状腺機能異常はないか。心機能は保たれているか。腎機能低下はないか。感染症がないか。悪性疾患が隠れていないか。必要な鑑別診断を行うことは絶対に欠かせません。しかし、一通り調べても明らかな異常が見つからないことがあります。あるいは、診断そのものはついていても、西洋医学的な病名だけでは患者さんの訴え全体をうまく説明できないことがあります。
ここで漢方医学は少し違った方法で患者さんを眺めます。一つ一つの症状を別々の病気として分類するのではなく、その人に現れている複数の症状、体質、身体所見などを一つのパターンとして捉えようとします。それが「証」という考え方です。この「証」が身体の中に実体として存在するか、と問われれば、話は簡単ではありません。しかし、その考え方を使うことで目の前の患者さんの状態を整理でき、さらに治療法の選択につながるのであれば、一つの臨床モデルとして利用する価値はあるのではないか。漢方が奏効する患者さんに出会うときなどでは特に、院長はそう思っています。
考えてみれば、医学にはそのようなものがたくさんあります。医学で使われている概念や分類は、必ずしも「それ自体が身体の中に存在しているもの」ばかりではありません。ヒトは複雑な現象を理解するために、さまざまな名前をつけ、分類し、モデルを作ります。そしてモデルというものは、現実そのものではありません。
これは地図と同じかもしれません。道路地図には道路が強調して描かれています。地形図なら高低差が重要になります。鉄道路線図なら実際の距離や方角はかなり変形されています。東京の地下鉄路線図を見て、「実際の東京はこんな形をしていない。だからこの地図は間違いだ」と言う人はいません。目的が違うからです。乗り換えを考えるのであれば、現実を忠実に縮小した航空写真よりも、デフォルメされた路線図のほうがはるかに便利です。漢方医学の「気・血・水」や「虚実」も、ある意味ではそのようなものなのではないか、と院長は考えています。人体そのものではない。しかし、患者さんという非常に複雑な存在を理解するために先人たちが作ってきた、一種の「臨床の地図」なのかもしれません。
もちろん、ここで大切な注意があります。虚数と漢方医学は同じものではありません。現代数学における虚数・複素数は厳密に定義され、整合的な数学体系の中に位置づけられています。一方、「気・血・水」や「陰陽」といった漢方医学の概念は、長い臨床経験の中から形成された歴史的な医学モデルです。
ですから、「虚数だって昔は理解されなかったのだから、漢方医学も全部正しい」という論理にはなりません。ときどき誤解されますが、漢方薬も薬です。効くものもあれば、効かないものもある。漢方が適する患者さんもいれば、まったく合わない患者さんもいます。当然副作用もあります。したがって、その有効性と安全性については、現在の医学研究の方法を用いて一つずつ検証していかなければなりません。
要するに「昔から使われてきたから正しい」という考え方に賛成はできないものの、同時に「現代医学の言葉で説明できないから間違っている」という考え方にも賛成できません。この二つは、似ているようでまったく別の話だと思うのです。
医学・医療は基本的には患者さんのためにあります。ある概念を使うことで患者さんの状態を整理できる。「こういう症状の組み合わせを持つ患者さんなら、この治療が効く可能性が高いのではないか」という仮説を立てることができる。そして実際に治療してみると症状が改善する。さらにそれが多数の患者さんで再現され、研究によって検証されていく。そうであれば、その概念には少なくとも臨床的な価値があります。
重要なのは、「その言葉が現代医学的に格好よく説明できるか」だけではありません。そのモデルを使うことで、現象をうまく整理し、患者さんの経過を予測し、適切な治療につなげられるか。そこが大切なところだと思うのです。
虚数も、その名前だけを見ればずいぶん不思議です。「虚」という漢字。それでも現代の数学者や物理学者が、「実在するかどうかわからないから使うのをやめよう」とは言いません。使うことで世界を非常にうまく記述できるからです。
漢方医学についても、「気なんてわからない」「証なんて曖昧だ」と、そこで思考を止めてしまうのではなく「なるほど。では、この考え方を使うと患者さんの何が説明できるのだろう」「どんな患者さんに、どの治療が効くと予測できるのだろう」と考えてみてもよいのではないでしょうか。そして、本当に役に立つのであれば利用すればいい。効くのかどうかわからなければ研究すればいい。医学とは本来、そのようにして発展してきたものだと思います。
西洋医学か漢方医学か。どちらが上か、どちらが下か。院長はあまりそのようなことには(究極的には)興味がありません。目の前に患者さんがいて、その患者さんが困っている。そしてわれわれ医師の手元には、病態生理学、薬理学、画像診断、手術、リハビリテーション、生活指導、そして漢方医学を含めたさまざまな「ツール」があります。ならば、その中から科学的・医学的に妥当なものを選び、患者さんの利益になるように使えばいい。
虚数という、かつて「想像上」と呼ばれた数が数学の世界を大きく広げたように、われわれが現在日常的に使っている物差しだけではうまく捉えきれないものの中にも、患者さんを理解するためのヒントが隠されているかもしれません。
「なんだかよくわからない」。それは否定する理由ではなく、もしかすると、「では、これは何の役に立つのだろう?」と考え始めるための入り口なのかもしれません。漢方を学んでいてときどき言われる、「その時間あったらもっと西洋医学的なエビデンスの勉強したほうがいいんじゃない?」みたいなディスに今回は全力で対抗してみました。
