もしタイムマシンを自由に使えたら安土桃山時代に行って安土城の威容を目に焼き付けたい。
安土城。歴史漫画や百科事典でそれっぽい部分的なイラストは目にしたことはありましたが、その全容(?)の記憶が最もアタマに残っているのは中学時代に全編おばあちゃんと内容についてあーだこーだ言いながら観ていた NHK 大河ドラマ『信長-King of JIPANGU』のなかの描写(1992 年なのでおそらく今よりチャチな CG だったのですが、あまり不自然ではなかった記憶があります)でした。個人的には緒形直人さんの信長はハマり役でした。特に築城のとき、仕事をサボって女性にちょっかいをだしている家臣を見つけた信長が、一目散に駆けて行ってその首をはねるシーン。そのときの緒方さんは信長そのものみたいで印象的でしたね。
そんな安土城、来年は築城開始 450 年ということで、滋賀県は一昨年から「令和の大調査」と銘打って発掘作業を進めています。すでに 2025 年の段階で天主跡や本丸御殿跡の付近で城の柱を支える礎石を 40 基以上発見しているなど、おそらく当時皆が度肝を抜かれたであろう "7 層の天守" がどのようなカタチであったのか、さらなる解明が期待されます。
1579 年に安土城が完成して信長が住み始め、本能寺の変が起きて焼失したのが 1582 年。要するに安土城はが完全な姿で存在したのはたった 3 年の "幻の城"。今回の大調査で「復元プロジェクト」が大きく進み、「信長が華やかな当時の粋を集めて造った名城」が少しでもわれわれ庶民に "見える化" されることを期待しています。
そんな信長ですが、「彼は鉄砲やそれをもたらした外国人(宣教師)に強い興味を示した」と記録されているように、"情報" と "技術" への強い関心を持っていたといえます。鉄砲伝来からわずかの期間で大規模部隊運用を可能にしたのは、単なる武器好きではなく “技術を体系化すると世界がひっくり返る” という感覚があったからこそでしょう。この流れと同じような文脈だったのかもしれませんが、彼は医療についても関心があったと思われます。人間誰しも権力を握れば、その力を可能な限り長く保有していたいと願うもの。信長は当代随一と呼ばれた医師・曲直瀬道三(京都の名医で漢方の体系化を進めた人物)に活躍の場を与え、一方でポルトガル人宣教師が携えてきた西洋医学の知識(病因論・人体観・外科手技)にも触れています。信長は、まだまだ医学が呪術的なものから完全に抜け出せていない当時のなかでは、かなりの先見の明を持っていたようで、彼らの知識や技術を “珍奇なもの” ではなく “便利なテクノロジー” として扱った大名のひとりであったと言えます。
さらに、信長は当時、シンクタンク的な存在であったとともに、知識や技術の独占企業であった寺社勢力を、関所(当時は寺社や各地域の武将などが勝手に設置したので流通に大きな支障となっていました)の廃止や、楽市楽座(寺社の許可などがなくても誰もが自由に商売できる市場の自由化を行い、様々な産業の自由な競争を推進することになりました)などにより抑え、“封建的ギルドの解体” ともいうべき政策を行いました。
当時の医師たちは寺社勢力と強く結びついていました(というより、この時代すべての勢力は寺社とともにあった、といっても過言ではなかったようです)。信長が寺社勢力を相対化し、政治空間から一歩後ろに下げたことで、“医療を寺社勢力、すなわち宗教の外へ出す” というプロセスが始まります。これはのちの日本医学の世俗化・科学化へ向かう非常に長い流れの起点になったといえるのかもしれません。
よく信長を、比叡山焼き討ちなどを引き合いに出して「残虐」「血も涙もない」「サディスティック」というひとがいますが、この見解はやや一方的な物言いかと思います。彼は "宗教そのものの弾圧" は一切行っていないからです。というのは、彼が実行したのは "宗教勢力による政治介入をやめさせること"、すなわち現代に通じる政教分離と同じことをやっているだけ、です。信長のこの姿勢は、現在でも続いている中東などにおける宗教勢力による血みどろの戦いに目を向ければ、どれくらい日本人の免疫寛容(これは医学用語で "免疫システムが自分自身や害のない食物を攻撃をしないよう受け入れる仕組み" のこと)に役立ってきたか、今一度再評価されるべきではないでしょうか。
ところで戦国時代〜信長秀吉による天下一統までは、その名の通り戦闘が恒常化し、医療の分野でいえば外科、特に外傷外科がもっと発達してもよかった時代でした。鉄砲は新しい外傷(銃創)を生み、それに対応する知識が必要となるなど、外傷学も多様になっていったからです。しかしながらいわゆる現代の "外科" は中世を通して賤視の対象となっており、そのせいで外科の発展が妨げられたのではないか、という説があります。これはいわゆる日本に古来からある、血液などを "ケガレ" としてみる一種の差別意識です。そのため戦国時代から織豊時代に際立った外科系医師の記録はみられません。漢方医として有名な曲直瀬道三など、この時代の名医は今で言う "内科的診療" を専らとしていました。
"血はケガレ" 前時代の呪符から解放され、日本で外科学が根付き、一般のひとが普通に外科治療(手術)を受けられるようになるには蘭学の進歩や日本医学の進歩をサポートするために招聘された外国人の尽力などさまざまな積み重ねを経て 300 年、すなわち明治の時代まで待たなければなりませんでした。
イラストは Chat GPT による安土城です。山の上にあったはずなのでもっともっと高くそびえていたはず。
