人生において重大な決断をする際はそれまでにどのくらい "アソビ" があるかどうかが大事なのかも知れません。
昨日述べたように、武田薬品工業 第 7 代目 社長、武田國男 氏の米国進出におけるある "決断" についての続きのハナシをします。
1980 年代、日本国内では大きなシェアを誇っていた武田薬品工業ですが、1962 年の海外進出以来、あまり外国、特に米国ではそのプレゼンスを示せないでいました。そんななか、(前日のブログで記述したように)父・鋭太郎の死亡により社長となった武田一族以外の社長による指示で、國男はアボット・ラボラトリーズとの合弁会社・TAP ファーマシューティカル・プロダクツという米国企業のバイス・プレジデント(本部長クラス)として海外赴任していました。
そんななか、國男は武田薬品の米国本格進出に際して上市する製品として、大きな選択を迫られることになります。それは
・当初日本武田薬品工業の執行部からの指示で開発が予定されていた抗菌薬
と、これに対する
・前立腺がんに対する治療薬 どちらに注力するか、という選択です。
当時、国内では PSA という腫瘍マーカーがまだ普及しておらず、診断される前立腺がんの多くが進行性(すでに転移しているもの)であり、標準的に施行されていた治療が「男性ホルモンを外科的に下げる」= 「去勢術(男性の両側精巣を摘除する手術)」だった時代でした。薬物治療も女性ホルモン製剤くらいしかなく、患者さんの多くが 5 年の生存が厳しく早期に亡くなっていた頃です。日本にいた執行部は
「患者数が少なく、手術は精巣を取るだけで大した薬の選択肢もない前立腺がんより、多くの症例があり、他社でも活発な開発が行われていたものの、新薬を上梓できる開発力は十分備えていた抗菌薬の市場に行くべき」という意見が大勢を占めていました。
しかし!國男は執行部の反対を押し切るカタチでここで「前立腺がん治療薬」を選択するのです。しかも、のちにその選択について聞かれたとき彼は「パチンコで養った勝負の勘が "前立腺がん" だった」と述べたそうです。カッコいい。
彼が選択した前立腺がんは、生活の欧米化や寿命の延伸により驚くほど患者数が増加。さらに腫瘍マーカー PSA の普及・診断方法(生検)の確立・手術方法の確立(パトリック・ウォルシュという、泌尿器科医なら誰でも知っているレジェンド先生の業績による)・新たな薬物療法(抗アンドロゲン剤とよばれる)の開発など、時代の流れにより欧米が先行、日本を含む東アジア各国が追随するカタチで新たな診断・治療が展開していきました。
國男が注力した薬品名は「リュープリン」(海外ではルプロン)。これは米国では 1989 年、日本では 1992 年に承認され、現在でも当院にて現役バリバリの主力前立腺がん治療薬として活躍しています(下写真)。リュープリンの開発・承認が功を奏して武田薬品の米国事業は成長軌道に乗り、膨大な研究開発費がかかる製薬に専念できるよう事業を整理、高い収益を上げる経営体質の礎をつくりました。日本の製薬会社で初めて1兆円を超える売上高を達成し、同社のグローバル化に大きく貢献しました。
ちなみに武田國男の Wikipedia によると、当時既に抗菌薬は、米国内では価格競争が進み成熟から衰退期に差し掛かっており、武田薬品が上市しても採算が取れる見込みは殆どなかったことが後に明らかになった。このときの判断は、経営者としての判断力・さらには直 "勘" 力を表すエピソードです。
父親に期待されずに育てられた國男でしたが、武田一族ではない元社長である小西新兵衛が彼の実力を大いに認め、1992 年に副社長、翌 1993 年社長に就任しました。彼は社内改革のひとつとして「武田一族からの社長就任時に受け継いでいた "武田長兵衛" の襲名はせず、この "襲名制度" を廃止」しました。新しい時代にそぐわないと考えたようです。
残念ながら國男は昨年 2024 年、84 歳で亡くなっております。彼は社長として大きな売上げ増に貢献した 2003 年、
「久受尊名不祥」(久しく尊名を受くるは不祥なり)――司馬遷(しばせん)がまとめた『史記』にある范蠡(はんれい)の言葉
を引き合いに出し、社長の座を譲りました。これは「いつまでも高い評価が続くのは危ういことだ」、ということです。ひとたび上り詰めれば、あとは落ちていくのみ。いつまでもトップの座にこだわる者への戒めとしてケジメをつけたのです。
そんな彼が残した素晴らしい薬をありがたく使わせていただき、本日も診療しています。
これからも素晴らしい創薬が日本の企業・大学や研究所などアカデミアとのタイアップで生まれていくことを祈念して本日の稿を〆たいと思います。