何度も繰り返し読みましたが、読むたびに何かしら学べる目が離せない漫画を生み出した偉大な つげ義春 先生に感謝。
[2026.04.13]
中学生の頃、 たしか藤沢だったと思いますが、なにかの映画の "抱き合わせ" で観た作品がありました。メインはその「なにかの映画」だったのですが(今ではもうタイトルを忘れてしまったくらいあまり有名ではない洋画)、なんとなく心に残ったのはその "抱き合わせ" のほうの映画でした。
タイトルは『無能の人』。漫画家・つげ義春 先生作品の映画化です。中学生の自分には「なんだかそこはかとなく寂しいけど目が話せなくて最終的には希望も感じる作品」という感じでした。のちに大学生になって つげ義春 先生の漫画作品の良さが分かるようになり、いくつか本を揃えたのを覚えています(まだ実家に何冊かあるはず)。
つげ先生の作品は、医療現場で患者さんに伝えるような「健康的なエクササイズ」や「将来のカラダを考えた努力」などとは対極にあるような世界観です。ただ、つげ作品にはどうしても惹かれてしまうのです。今日はその理由について、『無能の人』などを通じて考えてみます。
医学の世界では、病気があれば「治す」ことを、悩みがあれば「解決する」ことを(原則として)目指します。しかし、つげ義春の世界には、そうした「快方に向かう」というベクトルがあまりありません。代表作の一つ『無能の人』の主人公、助川助三を例に挙げてみましょう。彼はかつて名の知れた漫画家でしたが、今は描くことをやめ、「妻とすったもんだのあげく」多摩川の河原で拾った石を売って生計を立てようとします。当然、河原に転がっているただの石が売れるはずもありません。妻からは「漫画を描け」となじられ、生活は困窮を極めていますが、彼は頑なに漫画を描こうとはしません。現代のわれわれの目から見れば、彼は「社会適応に苦しむ境界例の人々」のように映るかもしれません。あるいは、つげ先生自身が不安神経症に悩まされていたという背景を知れば、作品に漂う虚無感や閉塞感をその症状の現れとして分析することもできるでしょう。しかし、そうした医学的な分析を無効化してしまうような、圧倒的な「停滞の美学」がつげ作品にはあるような気がします。
作品の中で、助川は自分を「無能の人」として位置づけています。これは、単に能力がないということではなく、社会的な競争や「役に立つこと」から自ら降りてしまった状態を指しています。現代社会、特に医療の現場は「生産性」や「効率」が重視されます。患者さんにも、早く元気になって社会復帰することを期待します。しかし、つげ作品の登場人物たちは、そうした「向上心」を放棄し、世の中から「のけ者」にされることをどこか受け入れている節があります。『無能の人』の一編「蒸発」では、放浪の俳人・井上井月の生涯が描かれますが、そこには貧困や苦痛を超えた、死に近い者が味わえるような境地や、ある種の「悟り」のような安らぎが漂っています。何もせず、ただそこに在る。その「無用」の状態が、日々「何とかしなければならない」というプレッシャーの中で生きる私たちにとって、奇妙な救いとして響いているのかもしれません。
また、つげ先生を語る上で欠かせないのが、1968 年に発表された『ねじ式』です。メメクラゲに腕を噛まれた少年が、医者を探して見知らぬ町を彷徨うこの物語は、夢のような超現実的な世界を描き、当時の漫画界に多大な衝撃を与えました。この作品に登場する「医者」は、どこか胡散臭く、少年の治療も「ねじ」を締めるという不可解な方法で行われます。ここには論理的な診察も治療もありません。しかし、この悪夢のような不条理な世界観こそが、つげ先生の真骨頂です。科学的根拠(エビデンス)を積み上げる医学とは全く相容れない、個人の内面から湧き出る得体の知れない「暗い叙情」がそこにはあります。
『無能の人』の中で、助川の息子が「父ちゃん、虫けらってどんな虫?」と無邪気に尋ねるシーンがあります。これは、妻が夫のことを「虫けらだ」と罵っていたことを受けた言葉です。このエピソードは、あまりにも悲惨で救いがないように思えます。しかし、つげ作品を読み進めていくと、この「虫けら」という評価さえも、あるがままの自分を受け入れるための一つの形に見えてきます。
私たちは、立派な人間であろう、正しい親であろうと無理を重ねてしまいます。しかし、つげ先生は、徹底的にダメな人間、社会の役に立たない人間としての「私」を、ユーモアと寂しさを交えて淡々と描き出します。その徹底した私小説的アプローチは、読んでいるこちらの「こうあるべきだ」というガチガチの鎧を、ふっと解いてくれるような感覚を与えてくれます。
なぜ院長は大学生の頃からこういったつげ作品を好きになったか。今の自分を顧みて考えてみると、それは診察室という「光」の当たる場所で、常に正しさと健康を追求し続けている反動?のようなことかもしれません。つげ義春の作品は、その光の影にある、人間の「弱さ」「醜さ」「どうしようもなさ」を、そのまま肯定してくれる場所だからです。まあ高血圧あるけどタバコやめられないひともいるし、中性脂肪と肝酵素のデータが悪化し続けてもお酒やめないひともいるし、尿酸値が高くてもエビ・カニ大好きなひともいます。そういった「正しくないひとたち」にもそのひとなりの生き方や考え方がある、ということをわかるだけでもわれわれ医師にとって味わい深い作品たちであるような気がしています。
つげ義春先生は惜しくも今年の 3 月に亡くなられました。しかしながらその作品たちが放つ独特の引力は今も衰えることがありません。もし皆さんが、日々の生活に疲れ、「何者かでなければならない」という重圧に押し潰されそうになったときは、ぜひつげ先生の本を開いてみてください。そこには、決してあなたを励ますような言葉はありません。ただ、「ダメなまま、無能なまま生きていてもいいんだ」という、静かな共犯関係のような安らぎが待っています。そこに身を委ねてみて下さい。ちょっとだけラクになれるような気がします。
・・・あと、『無能の人』映画版では風吹ジュンさんがとっても可愛らしくて素敵でした。機会があれば是非漫画といっしょに映画もチェックしてみてください。竹中直人 さんの初監督作品だそうです(観たときはまだ竹中さんを知りませんでした)。
