勝手ながら師と仰ぐ江戸時代の "大施主" の享年に自分も達しましたので一度その偉大さを振り返ってみるー前編。
[2025.07.15]
彼が生き延びて幕閣として開国の波が押し寄せる幕末に活躍できる場が与えられたならー。歴史に if はない、と言うひとがいますが、院長がそんな if を思わずにはいられないほどの人物です(この点については高野長英もしかり)。崋山先生は、現在愛知県の田原市にあたる県最南端にある田原藩の家老を務めた幕臣です。しかも画家であり、蘭学にも精通し、さらには商人にその生き方を示したり、人間として大事なことを示したりと、政治家・思想家としても高く評価されている人物です。華山先生の人生は、政治と芸術、実務と思想、伝統と西洋というように、相反する領域を見事に横断しながらも、ひとつの強靱な人格に貫かれていたことが特筆されます。
渡辺崋山先生を院長は勝手に師と仰いでおります。優れた医師であった高野長英も大変魅力的ですが、人間的には華山先生のほうが何倍も好きです。本日よりしばらく先生の生涯と業績を、特に「田原藩家老職と画業との両立」「実直な性格と積極果敢な行動力」「蘭学・洋学との関わり」「思想家としての側面」「蛮社の獄との関わり」「自裁に至るまでの心情」と多角的に紹介していきたいと思います。
あまり医療とは直接関係のないハナシになってしまいますが、院長の年齢が華山先生の享年に達した、というややこじつけ的な理由で好きに書いてみたいと思います。
渡辺崋山先生は 1793 年(寛政 5 年)、江戸本所で田原藩の藩士・渡辺家の長男として生まれました。本名は渡辺登(わたなべ・のぼる)、崋山は雅号です。彼の生家は、田原藩(三河国、現在の愛知県田原市)に仕える上士の家系で、当時は家禄を縮小され厳しい経済状況で貧しいなかではあるものの、学問と武士道の修養を重んじる家風に育ちました。
少年期から崋山先生は聡明で、漢学をはじめとする儒学に親しみながらも、貧困のなかで暮らしていたためか、家計の助けにしたいとくきっかけで絵画への強い関心を抱き、南画などの伝統的な画法に加え、蘭学による写実技法など新しい画風にも挑戦しました。特に彼は様々な文化人や学者との交わり、その姿を人物像として残していくこと数多く行ったため、「華山先生の絵画があるから」ということで名前が残った人物は多数存在します。
一方、華山先生は単なる文人・画人ではなく、武士としての責務を重んじ、特に田原藩の藩政において極めて重要な役割を果たしました。田原藩は小藩であり、領地も少なく、財政的にも逼迫していました。その中で崋山は、家老職という極めて重い職責を担い、藩主三宅家を支える要となって藩政改革に取り組んでいきます。
行った政治活動は財政再建・農政改革・人材登用・教育振興など多岐にわたります。特に農民への課税方法の見直しや、飢饉対策、殖産興業に力を注ぎました。たとえば農学者の大蔵永常を田原藩に呼び、水害の多い田原の地で稲作の技術改良を行ったり、当時(現在のふるさと納税のように)諸藩の有力な財源となっていた商品作物の栽培のために渥美半島の温暖な気候に着目してサトウキビ栽培に挑戦したり、ハゼ・コウゾの栽培で利益を上げたりと、単なる武士ではできないような藩内の発展を目指したという記録が残っています。特記すべきは天保の大飢饉時。他藩で多くの犠牲者が出るなか、あらかじめ用意しておいた報民蔵と呼ばれる食料備蓄庫を築いたり、『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、当時全国で唯一幕府から表彰を受けています。
そんな華山先生が下(みなもと太郎 著『風雲児たち』ワイド版 15 巻より)にあるような七文字の遺書を残して切腹しなければならなかったのか。明日はその点について紹介したいと思います。数年前訪れた田原市にまた行きたい。
