勝手ながら師と仰ぐ江戸時代の "大施主" の享年に自分も達しましたので一度その偉大さを振り返ってみるー中編。
渡辺華山先生について、昨日はその事績を紹介しました。もし蛮社の獄がなく、高野長英らとともに早くから幕臣として海外との折衝役として彼らが登用されていれば・・・。歴史に if はない、と申しますが、もう少し日本の近現代は(いい方向に)変わっていたのではないかと夢想します。
さて、昨日から引き続き華山先生のハナシを。本日は先生がどのような経緯で幕府に処罰され、切腹するまでに至るかを紹介したいと思います。本当にこのような誠実な人物がどうして自害しなければいけなかったのか。世の不条理を感じてしまいます。
19 世紀初頭、鎖国体制を維持していた日本の近隣でしばしばみられた風景がありました。それが外国からの船、いわゆる「異国船」です。蘭学者として世界の実情を(固陋なカラに閉じこもって目や耳を塞いでいた)幕閣よりもよく知っていた渡辺崋山先生をはじめとする尚歯会 (江戸時代後期に蘭学者・儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会で、華山先生はその主要メンバーでした)の会員たちはこの異国船について大変大きな懸念を抱いておりました。それは 1825 年に幕府が出した「異国船打払令」です。これは、日本の沿岸に現れた外国船を無条件に追い払え、という強硬政策で、国防と外交の知識を持つ尚歯会のメンバーたちには、「国際的な常識に欠ける暴挙」に見えました。まあ現在の常識で考えたらアタリマエです。「とにかく打ち払え」と言われても相手はヨーロッパやアメリカからはるばる日本まで航行できる蒸気船をもった先進国です。二念なく打ち払う、などといったことをしていたらいつか大きなしっぺ返しを喰らうぞ、と。
そんななか崋山先生は外国の軍事的脅威を正しく認識し、日本も西洋の軍事技術や知識を取り入れて備えるべきだと説いた『慎機論(しんきろん)』を執筆します。伝統と前例により行動が制限される田原藩家老という立場と開国を見据えた新しい考え方に基づく蘭学者という 2 つの矛盾する立場にあった華山先生。どちらの立場にも誠実であろうとするあまりか、やや主張が破綻している、という指摘もされるこ文(院長は 22 歳頃にたしか横浜市の図書館で和訳をほぼすべて読んだことがあるのですが、本当に失礼ながら論旨がうまく流れていないところがいくつもあるような印象でした)です。このなかで、異国船打払令の非現実性や、日本の国防の脆弱さを痛烈に批判し、開明的かつ実利的な視点から、積極的に西洋技術を学ぶべきだと主張しています。この論文は当時、少しでも幕府政治を悪く言おうものなら「ご政道批判」として逮捕されることもアタリマエの時代にあって、華山先生もご自身で危険な書物と考え、発表せず自宅の机においておくカタチとなりました。
そんななか、1839 年に、幕府は蘭学者や洋学思想をもつ知識人を一斉に弾圧する「蛮社の獄」を開始します。これは当時の老中・水野忠邦の下でこの事件の中心人物であった鳥居耀蔵(このひとも研究しがいのある大変興味深いキャラクターです。ここでは深入りしませんが)が画策したとされ、ターゲットは伊豆韮山の代官・江川坦庵であったとされていますが、坦庵は幕閣であったため罪に問われることはなく、坦庵と同じ尚歯会メンバーであった崋山先生らが逮捕されました。蛮社の獄では、洋学思想や幕政批判が「不忠」とされ、逮捕者は厳しく取り調べられ(『耶蘇伝』(イエス・キリストにまつわる伝記など)を翻訳して華山先生に口訳した小関三英は、逮捕・拷問などを恐れ、自害しています)、崋山先生も捕縛されます。
お白州(むかしの裁判所みたいなところ)で崋山先生は、自身の思想や行動が「国家を思ってのこと」であったと主張し、取り調べに対しても堂々とした態度を貫きました。だが、それがかえって幕府の側には反抗的と映りました。さらには幕府による家宅捜索で机の上に堂々と置いてあったとされる『慎機論』を役人に読まれたことを知ると華山先生は(内容が幕府批判であることを重々わかっていたため)がっくりと肩を落とし、裁きの結果を受け入れます(幕政批判の罪で家老職解任のうえ田原にて蟄居)。
崋山先生はこの時、自らの信念を持ちながらも、藩に迷惑がかかることを何よりも恐れたといいます。特に家老という立場から、田原藩の安定と名誉を守ろうとする強い責任感がありました。小伝馬町の牢内で(自分のことではなく田原藩のことについて)幕府への弁明文を何度も書き、田原藩に大きな罰が与えられることは回避できています。
田原で蟄居を続ける華山先生は失意のうちにひとり狭い自宅で鬱々とした日々を過ごし、筆を持って絵を描いているときだけが充実感を味わえたとされています。そんななか、華山先生の厳しい経済状況を少しでも好転させようと、かつての絵画の弟子が訪れ、華山先生のすぐれた作品を集めた個展を江戸で開催、成功を収めます。
しかしながら田原藩の上層部は「身勝手なご政道批判をして罰せられた渡辺が、蟄居の身でありながら金儲けをしている。このことが幕府に知られたら田原藩にどんな災いが及ぶかわからないのになんて身勝手なヤツだ」と華山先生を厳しく批判しました。田原藩のことを自分の身より大切に考えていた華山先生はこのことを知ると重く受け止め、昨日紹介した七文字の遺書(レプリカが田原市博物館に掲示されています。院長はこれをもう 3 回くらい見ていますがいつ見ても先生の無念が強く伝わり落涙しそうになります)をしたためたのち、切腹して果てます。現在の院長と同じ満 48 歳でした。
崋山先生の死は、幕末の知識人たちに深い衝撃を与えました。しかし先生の思想は後にに引き継がれ、特に『慎機論』は明治維新を迎えようとする多くの志士に読まれ、彼らの思想的土壌のひとつとなっていきました。蛮社の獄は、表向きは治安維持が名目だったのかもしれませんが、実際には時代の変化に順応できない幕府の限界を露呈する事件と(結果的には)なりました。
家老として藩政改革に尽力し、画家としては写実的な肖像画や山水画で高く評価され、学者としては洋学を通じて国家の将来を真剣に考察するという、まさに「三兎を追った」人物。「三兎を追う」。このコトバ、つい先日このブログで紹介しましたね。そうです。院長の母校、神奈川県立湘南高等学校で学生がハッパをかけられるときによくいわれるフレーズです。大いなる先人が大変巧みにこのような 3 つの大きな仕事を鼎立していたことを知り、自分はまだまだと感じます。崋山先生は 3 つの顔を持ち、それぞれが独立して優れていたという稀な人物でした。さらに先生の誠実で実直な人間性、果敢な実行力、そして最後に至るまでの清廉さについては多くのエピソードがあります。そのなかで院長が特に好きな 2 つの訓戒を、明日紹介しようと思います。これらは現代に生きるわれわれにも通ずる普遍的な教えです。
