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名作漫画『チ。』を一気に読了してからふと考えた、"何をどのように渡すか"。

[2026.08.27]

最近よく、子供の本棚にある漫画を読ませてもらっています。ジェネレーションギャップを感じて途中で挫折することもありますが、49 歳が読んで「傑作!」と膝を叩きたくなるような作品もたくさんあります。

そのひとつが魚豊先生の『チ。―地球の運動について―』。大好きなサカナクションがアニメ版のオープニングソングを歌っているのでそのタイトルは知っていたのですが、まさかこんな名作とは。『進撃の巨人』も家族に教えてもらったのですが、ウチの家族は選球眼ならぬ "選漫眼" が優れていて嬉しい。

舞台は中世ヨーロッパを思わせる世界。人々が天動説を当然のものとして受け入れているなかで、「もしかすると地球のほうが動いているのではないか」という考えに魅せられた、人類にとって偉大な(しかし名もない)先人たちを描いた物語です。こう書いてしまうと、「地動説をめぐる科学漫画」と一言で収束してしまいますが、実際読んでみると、単なる科学史を描いた作品、で済ますにはトンデモナイ作品です。

大きなテーマとしては、サカナクションのミュージック・ビデオもそうなのですが、

「人は、自分の人生よりも長く残るものを、次の誰かへ渡すことができる」

ということでしょうか。そしてこのテーマは、50 歳を目前にした今だからこそ、院長の胸に刺さります。

20 代・30 代の頃の自分の立ち居振る舞いを思い浮かべると、その主語はほとんど「自分」だったように思います。

「自分は ◯◯ の手術を ▢ 件やった」

「この論文で自分の英文誌は △ 本目になった」

「あの先生は ▽ 年目なので自分のほうが上」

などと、とにかく主語が「自分」「自分」。ミーイズム、というやつです。まあ、少し言葉をキレイに整えれば「自分は何者になるのか」、「どこまで仕事ができるようになるのか」「どこまで自分の技術を深めていけるのか」「どのような施設で活躍できるのか」。そんな自分の近未来に対する解像度を少しでも上げたかったのかもしれません。当時は自分の能力を高めることが、そのまま仕事の価値につながっていた時期です。

これが 40 代くらいになってから、特に開業してから感覚が少し変わってきました。

「自分が何をできるようになるか」だけではなく、

「自分が知っていることを、誰にどう渡すか」

ということを考えるようになりました。そのため「大学や病院の垣根を超えた手術スキル向上を目指すワークショップ(メンバーが所属している施設の頭文字をとって "J-KONG" と名付けました)」を立ち上げたり、がん研有明病院時代に診療科を超えた「手術合併症について深堀りする勉強会("HANGEN ミーティング" と名付けました)」を作ったりしました。自分の勉強のため、ということももちろんありますが、これらはどちらかというと「若手育成」を主座としていました。

『チ。』のなかでも、ひとりの人間が多くを成し遂げるわけではありません。誰かがある考えに気づく。しかし、その人の人生には限りがあります。それでも、その考えが別の誰かに伝わる。受け取った人が、さらに少し先へ進める。そして、また別の誰かへ渡されていく。この連鎖が、とても印象的に描かれています。

人間一人の寿命は短い。けれど、知識は人から人へ渡ることで、個人の寿命を超えることができる。考えてみれば、これは人類そのものがやってきたことなのでしょう。われわれはゼロから医学を学んでいるわけではありません。解剖学も生理学も感染症学も外科学も何百年何千年という時間をかけて誰かが積み重ねてきたものを受け取っています。

現在どの医師にとっても、患者さんを診察するときに使っている知識のほとんどは先人が発見したものではないはずです。自分より先人の医師たちや研究者らが見つけ、検証して論文にして教科書に残してくれたものです。つまり医療というのは最初から巨大な「知識のバトン」を受け取るところから始まっているのでしょう。

30 代くらいの頃は、「教えること」を少し面倒に感じることもありました。自分でやったほうが早い。説明するより、自分で処理してしまったほうが確実。忙しい医療現場では、そう思うことは珍しくありません。しかし年齢を重ねると、少し違って見えるようになります。自分だけが知っていることには限界があります。自分だけができることにも限界があります。けれど、それを誰かに渡すことができれば、その知識や技術は自分の手元から離れて、別の場所でも使われるようになります。後輩医師に教えたこと。スタッフに伝えたこと。学生に話したこと。そうしたものは、こちらが忘れてしまったあとでも、意外なところで残っていることがあります。

かつて病院でともに働いた後輩医師から「あのとき先生にこう言われたので、今でもそのようにやっています」などと学会等で言われると、こちらがその言葉を覚えていないことさえあります。けれど、伝えた側が忘れても、受け取った側に残っている。これはなかなか不思議なことです。『チ。』を読みながら、そのことを何度も思い出しました。

特に患者さんに(「教える」というとやや違和感なので)伝えた言葉は、「伝えることでより自分の勉強になる」ような気がしています。よく学校の先生が「教えることは学ぶこと」とおっしゃいますが、これはまさにわれわれ医師にもあてはまる言葉だと思っています。

開業医になってからは、さらにその感覚が強くなりました。勤務医であれば、基本的には自分の診療能力が仕事の中心です。もちろん教育や研究もありますが、少なくとも日々の仕事では「自分が患者さんを診る」ということが大きな割合を占めます。一方、クリニックを運営していると、自分一人の診療能力だけではどうにもなりません。スタッフがどのように患者さんに説明するのか。薬の副作用を説明するときにどのような例え話を使うのか。どんな表情、アイコンタクトで説明するのか。究極的には "どのような医療を目指すのか"。こうしたことを言葉にして共有していかなければ、組織は同じ方向には進みません。

つまり院長の仕事には、「自分が診療する」以外に "考え方を残す" という役割があるのだと思います。

もう 2 年間以上毎日綴っているこのブログについても、最近少し考え方が変わってきました。以前ブログはクリニックの情報発信や院長のキャラクター紹介などの意味合いが大きい内容でした。もちろん、それは今でも変わらないところがあります。

ただ最近は、もう 2 つ役割があるように感じています。ひとつは、「その時点の自分が考えていたことを残しておく」ということ。

2026 年の自分が何を考えていたのか。医療についてどう感じていたのか。自分の仕事をどう捉えていたのか。10 年後に読み返せば、おそらく恥ずかしくなる文章もあるでしょう。「こんなことを考えていたのか」と苦笑するかもしれません。

あとひとつは「自分の考えをスタッフに伝える、分かってもらう」ということ。忙しい日々の診療中になかなか長尺で自分のコトバをスタッフに届ける時間はとりづらい。そこでこのブログを書くことで院長が日々何を考えているのか、その一端だけでも分かってもらう。そんな思いでこの文章を毎日飽きもせず書いております。言葉にすることで初めて、自分の考えは自分の外に出ていきます。それを読めば、その人のなかで少し形を変えて残ることもあるでしょう。それは『チ。』で描かれる壮大な知識の継承とは比べものになりません。けれど仕組みとしては、同じなのかもしれません。

医師人生も気づけば 26 年目。自分が長年かけて身につけたものを、すべて自分のなかに閉じ込めたまま人生を終えるのは、少しもったいない気がしています。医学知識でもいい。仕事のコツでもいい。失敗談でもいい。患者さんと接し方でもいい。ふと振り返ってみると、自分が渡せるものは、意外にたくさんあるように思います。年齢を重ねるということは、「教える資格を得る」ということではなく、「渡せるものが少しずつ増えていく」ということなのかもしれません。

『チ。』を読み終えたあと、サブタイトルの「地球の運動」についても考えました。地球は動いている。けれど、人間の人生もまた動いています。自分が生まれる前から世界はあり、自分がいなくなったあとも世界は続きます。そう考えると、自分の人生というものは、とても短い一本の線にすぎません。しかし、その短い時間のなかで受け取ったものを、次の人へ渡すことはできます。上で書きましたがやはり「教えることは学ぶこと」。医師は、いや人生は「勉強してナンボ」だと思います。そんなわけで明日からも毎日ブログを書いてまいります。

子供の本棚。左右にも面白い作品が並んでおります。

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