善意が善意として認められるべきと思いますが、何でもスマホで撮影できる現代ですのでしっかり法制化しておくべきでしょう。
むか〜し、院長が研修医 1 年目だったときのこと。こんなハナシを同期の研修医から聞きました。
駅のホームで突然倒れた人がいました。近くにいた自ら「看護師です!」と言ってくれた女性がすぐに心肺蘇生を開始し、周囲の人が 119 番に電話するなど慌ただしく動き始めました。結局それらの対応中に倒れたひとは意識が戻り、無事だったので良かったのですが、後日倒れた人の家族から「胸骨圧迫による肋骨骨折の後遺症」について問い合わせがあり、その看護師に、警察に教えておいたケイタイ番号へ着信があったそうです。彼女は警察署に行き、事情を説明しましたが、そのときの警察官が彼女に質問をする様子はさながら「尋問」で、結局その場で解放されたものの、ものすごく嫌な気持ちになったそうです。
ここで思い出されるのが、聖書の中に出てくる「良きサマリア人(Good Samaritan)」の話です。
この物語では、ある旅人が山賊に襲われ、道端で重傷を負って倒れている場面から始まります。そこを通りかかったのは、宗教的には敬虔であるはずの祭司やレビ人。しかし、彼らはその傷ついた男を見て、避けるようにして通り過ぎてしまいます。
そんな中、差別されていた少数民族サマリア人のひとりが通りかかり、傷ついた旅人を手厚く介抱し、自分のお金で宿屋に預けて看護を依頼したのです。
当時の常識からすれば、「サマリア人は助けないだろう」と思われていた存在。だからこそ、この行動は衝撃的であり、「人間にとって本当に大切なのは、民族や身分、教義ではなく、“困っている人に手を差し伸べることだ”」という強いメッセージが込められているのです。
昨日のブログで紹介した「意識を失った仲間の舌を引っ張るマウスと」、「名もなき旅人を助けたサマリア人」──。
彼らには共通点があります。
どちらも「見返りを求めていない」「とっさに行動に移した」「命を守るための優しさがあった」こと。そして何より、「自分にできることをする」というシンプルだけれど最も難しい行為を直ちに実行した点です。
たとえば、災害現場で目の前の人が助けを求めていたら?エレベーターで同乗しているひとが意識を失ったら?交通事故を眼の前で目撃してしまったら?
こういった “いざ” という瞬間に、私たちは知識や勇気、そしてほんの少しの行動力を問われます。こういったとき、欧米では「良きサマリア人の法(Good Samaritan Law)」という形で、救急救命などの現場での善意の行為を保護する法律も存在しています。しかし日本では、これにあたる法整備がないらしい(法律に詳しい方、もし間違っていたら指摘してください)。できれば「善意から行った救命や救急の対応は、たとえそれが完全にベスト、とはいえない行為であっても、ある程度は免責にするのが世の中のあり方ではないかと愚考します。
私たちはマウスではありません。でも、舌を引っ張ることはできなくても、誰かの背中をさすったり、声をかけたり、手を握ってあげることなら、できるかもしれません。
人間は、思いやりと理性の両方を持つ生き物です。医療者はもちろん、非医療者であっても、「助けなきゃ」「少しでもなにかできないか」と思ったときに、一歩を踏み出す勇気を尊重する社会であってほしいと思います(もちろん過度な救助者保護は許容できないので一定のルール作りは必要ですよ)。