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当院がある旧相模国西部は全国で戦乱が繰り広げられていた戦国時代の頃でも 100 年の平和を保っていました。

[2026.04.10]
現在連載中の漫画で院長が最も楽しみにしている作品、それが ゆうきまさみ 先生の『新九郎、奔る!』です。北条早雲の漫画ですね。院長が長らく抱いていた「戦国時代をはじめた大器晩成型の梟雄」というイメージはむかしのもので、現在は「応仁の乱をまとめられず世の中を戦乱の渦に巻き込んで悪びれない室町幕府に見切りをつけて現世における "公正な国" を設立するために尽力した熱い男」という見方にかわりました。
 
そんな早雲の人生を、ゆうき先生はすぐれたストーリー・テリングと(ときどき現代的メタ手法を用いて述べられる)極めて理解しやすい記述の仕方により、その魅力とともに余すところなく表現しています。最新刊 22 巻ではいよいよ早雲が歴史の表舞台にあがる「伊豆討ち入り」前夜が描かれ、院長のようなファンにとってはもうテンション爆上がりです。
 
昨日のブログで小田原城がついに秀吉の力で陥落することになった小田原攻めにおける連合国側の本拠地、「石垣山一夜城」について述べましたが、今回は本拠に関八州(関東地方)を約 100 年にわたって治めた北条五代について、彼らの優れた治世を紐解いていきます。彼らの事績を知ると、現代の "健康管理" にも通じる、「いたわり」の姿勢がみられます。
 
1. 理想の始まり:初代・北条早雲の志
北条氏の歴史は、北条早雲(伊勢宗瑞)から始まります。かつて早雲は、一介の素浪人から実力のみで戦国大名へとのし上がった「下剋上の典型」と考えられてきました。しかし近年の研究では、室町幕府の将軍に仕える名門の家柄出身であったことが明らかになっています(『新九郎、奔る!』はしっかりその研究を踏まえて描かれています)早雲が関東に足を踏み入れたきっかけは、姉が嫁いだ今川家の家督争いを収束させるための助太刀でした。その後、1493 年に伊豆を、1495 年には小田原へと進出し、相模の国を平定します。彼の治世の根底には、後に語り継がれる「早雲寺殿二十一箇条」(他国の分国法に比べてものすごくわかりやすい)という訓戒に象徴される、誠実さと規律を重んじる精神がありました。早雲は一貫して北条を名乗らず「伊勢氏」として通しましたが、その志は次代へと確実に引き継がれていきました
 
2. 基盤の確立:二代・氏綱と「五箇条の訓戒」
二代目の北条氏綱の代になり、一族は正式に「北条」の姓を名乗るようになります。これは、鎌倉時代に執権として関東を支配した名門・北条氏の名を継ぐことで、室町幕府や関東の民衆から正当な統治者として認められるための戦略的な決断でした氏綱は戦上手であるだけでなく、内政の仕組みを整えることにも非常に長けていました。彼は、北条氏が永続するための基盤を築き、領地の支配を盤石にするための様々な制度を考案しました。氏綱が三代・氏康に遺した「五箇条の訓戒(北条氏綱公御置文)」は、北条氏の政治哲学を象徴しています

一、義を重んじること

二、人には捨てるような者はいないので、家臣や良民を慈しむこと

三、奢らず、へつらわず、己の分限を守ること

四、倹約を重んじること

五、勝ちが続くと驕りが生じるので注意すること

特に二つ目の「良民を慈しむ」という教えは、北条氏の治世が単なる支配ではなく、民との共生を目指していたことを物語っています。実際に諸国で税率が 50-60% が当たり前だったこの時代に北条氏は 40% を超えないようにした、と言われています。現代の政治家さんに伝えたい。
 
3. 民を救う改革:三代・氏康の黄金時代
北条五代の中でも、最もその撫民の精神が発揮されたのが三代・北条氏康の時代です 氏康の時代、領内は大規模な飢饉や地震といった自然災害に見舞われました。生活基盤を失った農民たちが、年貢はおろか日々の食事にも事欠き、領地から逃げ出してしまうという未曾有の危機に直面したのですこの時、氏康が取った行動は驚くべきものでした。彼は民の窮状を察し、税(年貢)の軽減や、今までの借金の帳消しを断行しました。さらに、役人を通さずとも直接自分に訴える(直訴)ことを許可し、民の声を直接政治に反映させる仕組みを作りました。この「民の苦しみに寄り添う」姿勢が、北条氏と領民との間に強固な信頼関係を築き上げました。
軍事的にも、上杉謙信や武田信玄といった並み居る強敵の攻撃を退け、関東に確固たる勢力を築きました。氏康の時代は、北条氏の「強さ」と「優しさ」が最も調和していた時期と言えるかもしれません。
 
4. 最大版図と終焉:四代・氏政と五代・氏直
四代・北条氏政、そして五代・北条氏直の時代、北条氏の支配領域は初代・早雲以来の最大版図を記録しました。氏政は父・氏康と協力して政務を担う「両統体制」を敷き、内政の安定に努めましたしかし、時代の波は豊臣秀吉による天下統一へと向かっていました。秀吉の圧倒的な大軍に対し、北条方は小田原城に籠城して対抗します。この時、小田原城は城下町を丸ごと囲む総長 9 キロメートルに及ぶ「総構え」を構築しており、当時日本最大面積を誇る巨大な城郭都市となっていました1590 年、3 ヶ月に及ぶ籠城戦の末、北条氏はついに降伏します。このとき生まれた言葉が「小田原評定」(話し合いが続くばかりでいつまで経っても結論や決着が出ない会議のことで、小田原城内で抗戦か降伏かの議論がまとまらず、無駄に時を費やした故事に由来する)です。氏政は自らの命と引き換えに家臣や城下の民の助命を乞い、切腹しました。五代・氏直は高野山へ追放され、ここで 100 年にわたる北条氏の関東支配は幕を閉じました。氏直は追放の 1 年後、残念ながら病死しています。秀吉は氏直のことを赦免しており、のちに国持大名として復帰させることを考えていた、という説もあるほど円満な人格でひとに好かれる雰囲気であったそうです。
 
5. 現代に息づく北条氏の精神
北条氏が滅亡した後も、彼らが築いた小田原の街とその精神は失われませんでした。 小田原は北条氏の手によって、最先端の物資が溢れ、商人が集まる活気ある城郭都市へと発展しました。当時の小田原には、中国人の居住地まであったという記録もあり、非常に国際的で豊かな文化が花開いていたようです。現代においても毎年「小田原北條五代祭り(今年も 5 月 3 日に開催です!)」が開催され、日本全国が戦乱のさなかだった 15〜16 世紀、100 年もの長きにわたり平和を維持し、民を大切にしてきた北条五代の歴史は今も院長を含む神奈川県民に愛され、誇りとなっています
 
おわりに
北条五代の治世を振り返ると、そこには「人の命と生活を第一に考える」という、現代の医療にも通じる大切な理念が見えてきます。氏康が災害時に行った迅速な救済や、氏綱が遺した「人には捨てるような者はいない」という言葉は、医療者が日々の診療でひとりひとりの患者さんと向き合う際の大切な指針です。この秦野を含む相模の地に生きる者として、北条氏の撫民の精神に学び、医療を提供していきたいと考えております。
 
歴史を身近に感じながら、心も体も健やかな毎日を過ごしていきましょう。『新九郎、奔る!』の ゆうきさまみ 先生が健やかでこの作品をこれからも世に送り出してくれることを心より祈念しつつ。
 

 

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