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戦後 80 年を迎えた記念すべき日に思うこと。

[2025.08.15]

本日は戦後 80 年目の節目の日でしたね。院長は母方の祖父がフィリピンで戦死しています。その後女手一つで娘(院長の母親ですね)を育て上げた富佐子おばあちゃんの大変な状況を子供の頃いろいろと聞くことができたので、戦場の悲惨さや、残されたひとびとの苦労がどんなものか、ほんの少しだけ分かっているつもりです。

フィリピンはレイテで散った祖父、勤之助おじいちゃんに「安らかに・・・」という思いを伝えるべく、できれば 12:00 に黙祷を捧げたいと思っていたのですが、最近増加している新型コロナウイルス感染症を含む発熱患者さんが本日も先日に引き続き多く来院されましたので、診療終了後の 20:30 現在、少し時間遅れの黙祷を行いました。どうか不肖の孫を、そして日本を天国から見守っていてください。

さて、太平洋戦争中、多くの医師や看護師(当時は看護婦)は軍のもとに招集され、戦地に赴きました。その結果、国内の医療現場は深刻な人手不足に陥ります。地方の小さな診療所や町医者は、事実上「臨時戦場病院」と化し、日常診療に加えて空襲や爆撃で負傷した住民の救急対応に追われました。しかも戦争が進むにつれて都会から地方への疎開により、もともと医師数の少ない地方の医療体制は非常に不十分なものであったと言われています。

さらに戦時中は衛生状態が悪化し、赤痢・結核・マラリアなどの感染症が蔓延しました。薬品の供給は軍需優先で限られ、抗菌薬の国産化は 1944 年にようやく成功し、特に戦争末期の民間ではほとんど手に入らなかったと言われています。当時の勤務医・開業医ともに手元のわずかな医療資材をやりくりしながら、時には古い民間療法や代用薬を駆使して診療を続けた、という記録が残っています。

診療環境も過酷でした。防空規制により夜間は明かりを漏らしてはいけないため、暗幕で覆った部屋でランプやろうそくの灯りを頼りに診察を行ったようです。医療器具もやむなく使い回し(そもそも、当時はウイルス肝炎とか HIV とかそういう概念自体がなかったこともある)、故障してもなんとか修理しながら長期間使い、包帯は洗って再利用、なんてのは当たり前でした。

戦争は、医師に倫理的なジレンマを突きつけます。当時の医師会は国策医療体制の一翼を担い、軍需工場労働者や兵士の診療を優先せざるを得ない状況がありました。これにより、一般市民の医療が後回しになることが常態化。「医療はすべてのひとに平等であるべき」ですが、憲兵隊や当時社会に広がっていた "空気" からして、それを実践することはなかなか困難だったことでしょう。

一方で、表立って語られることは少ないものの、戦争協力を拒む姿勢を貫いた医師がいたという記録が残っています。徴兵を避けるために軍事関連診療に従事することを拒否し、農村や都市の診療所で一般市民の命を守ることを選んだ人たちです。もし日本が再び(戦略や戦術のない無謀な)戦争に突き進むことがあったとして、院長はそのとき軍人にきっぱりと "NO!" が言えるか。医療倫理の葛藤は、現代にも通じる重要なテーマです。

そして 80 年前の今日、終戦。当時日本の医療は壊滅的な状態からの再出発となりました。都市は焼け野原となり、多くの病院は学校などの教育機関と同様、カタチも残っていません。そのなかで、地域に残った開業医は、引き揚げ者、戦災孤児、栄養失調の子ども、感染症患者と向き合いながら、地域医療の再建に大きく貢献したと記録されています(治療費を要求しても払えないひとがほとんどだったので野菜や果物などの現物を季節ごとに受け取る状態だったそう)。

戦後の混乱期には、GHQ(連合国軍総司令部)の公衆衛生活動とも連携し、予防接種や衛生教育を推進する役割も担いました。やがて国民皆保険制度への準備が進むなかでも、開業医は行政と住民の橋渡し役として機能しました。地域に根差した診療所の存在が、戦後の健康水準の回復を早めたことは間違いありません。様々な記録がありますが、この頃は医療費が「裁量性」すなわち値段を医療機関が決めていましたので、地域によって大きく料金が異なっていたようです(全国的な比較は院長が調べた限り、ほとんど残っていないのでわからない)。ただし医療費についてマスコミや当時の小説・エッセイなどに「医療費が高くて云々」みたいな記述がないことを考えると決して法外な値段をふっかけるような医師はいなかったものと(やや楽観的な)予想はされるところです。

戦後 80 年を経た今、日本は平和な時代を享受しています。しかし、戦争が医療に及ぼす影響を知ることは、決して無駄ではありません。むしろ、地震や感染症流行などの非常時において、戦時下の経験は私たちに多くのヒントを与えてくれます。物資不足への備えは「医療物資や薬品が途絶した場合に備えた在庫管理や代替手段の研究」いにつながりますし、地域連携の洗練化は「病院・診療所・薬局・行政など、医療に関わる団体相互のネットワーク構築」に、医療倫理について考えることは「緊急時・非常時であっても医療者が患者の人権や公平性を守る姿勢を改めて確認すること」になります。

日々「安全」「確実」「共感」などをベースとなる価値観として生きているわれわれ現代の医療者にとって、戦争は一見すると遠い過去の話に思えます。しかし、極限状態であった当時のことを学び、そのなかで医療者が果たした役割を知ることは、大地震や大津波、はたまた大噴火などの確率が 0 ではない(それどころか相当高い)日本において、何を準備してどのように地域を守っていくべきかを考えるうえで重要です。

歴史が好きな院長ですが、大学生くらいまではなんだか暗〜い気持ちになってしまう昭和〜戦後 20 年くらいまでのことをしっかり学ぶことを少し避けていました。しかし、開業医になって地域に根ざすようになった現在、改めて戦争を経験した先人たちが命をつないで医療を絶やさなかった事実に感謝します。そして今後も(なんだかんだ言われることがありますが)素晴らしい日本の医療を維持するために、小さなクリニックですができることを一歩ずつ積み重ねて参ります。

(本日はもう一度)黙祷。

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