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最近は以前よりも多くの女性が泌尿器科医の道を選ぶようになりましたが、そのはじまりにはこの先生がいます。

[2025.05.16]

「ヒポクラテスの誓い」という、医学生や医師なら誰もが一度は聞いたことがある、"医師の倫理や本分についての神にむけての宣誓" があります。このヒポクラテス、「固有名詞として残る最古の医師」とされています。BC 460 年頃誕生したひとなので、活躍したのはもう 2500 年近く前のこととなります。中国で最古の医師とされ、「麻沸散(まふつさん)」という麻酔薬を発明、これを使って全身麻酔手術をするまで外科学を究めた華佗が AD 200 年頃のひとですから、ヒポクラテスがいかに古くから医師となして名を成していたかがわかりますね。ちなみに、「麻沸散」の文献は散逸し、当時の処方は不明のままです。残念ながら。

ちなみにヒポクラテス、華佗ともに男性です。

ではここで問題。世界で初めての女性医師として記録に残っているのは誰でしょう。

答えは古代ギリシャに伝わる女性医師、アグノディケ。伝説的な人物でたくさんのエピソードがあります(彼女については明日述べてみようと思います)。

今回はぐっと時代が下り、江戸から明治にかけての日本で最初に医学を修めた女性のハナシをします。その名は楠本イネ。彼女は 19世紀、江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて、日本で初めて女性として医学を修め、本邦において女性として初めて医師としての道を歩みました。

この「おイネさん」、誰しも聞いたことがある有名な外国人が父親です。それは、「ドイツ人にもかかわらず、日本の文化・民俗学・自然科学を勉強したいという一念でオランダ人になりすまし、はるばる鎖国下江戸時代の長崎出島までやってきた医師」、シーボルト。

楠本イネは、1827 年長崎に生まれました。母は出島で外国人相手に春をひさぐ丸山遊女であった楠本瀧。当時の日本は鎖国の真っただ中。長崎の出島だけが外国と通じる窓口でした。シーボルトはそこに立地していたオランダ商館に医師・学者として赴任していたわけです。ドイツ人であるという出自を偽って。日本人とヨーロッパ人との間に生まれた混血児(現代的に言えば mixed roots)という、当時としてはそれだけでも珍しい存在だったイネですが、さらに彼女の運命を大きく動かしたのが父の「シーボルト事件」です。

これは 1829 年、彼が日本の地図や植物標本などを国外に持ち出そうとしたことで幕府から咎められ、強制的に国外追放になったという有名な事件です。そのとき、イネはまだ 2 歳。以降、父と娘は長く生き別れの状態になります。イネは日本に残され、母・瀧のもとで育てられますが、父の血を強く引いたその容姿と、医学に向けた強い情熱は、まさに “シーボルトの血を引く女性” としてふさわしいものでした。

イネは若い頃から「父と同じく医者になりたい」という強い希望を持っていました。当時の日本では、「女性が医術を学ぶ」ことは一般的ではありません。それどころか「女性が学問をする」ということ自体、批判的に見られた時代でした。しかし彼女には、父譲りの情熱と、父の残した医学書や資料が手元にあり、医師になりたい、という思いは日に日に膨らんでいきます。

さらに、母のつながりでシーボルトの弟子であった石井宗謙や二宮敬作といった一流の蘭方医たちからも教育を受ける機会を得ます(しかしこの石井宗謙、産科医としては優秀だったのですが、のちにイネを辱め、イネは望まない子どもを授かることになる・・・という数奇な運命を辿ります)。女性が本格的に医術を学ぶことなど全く前例のないこの時代。イネは、「医師になる」という固い決意のもと、着実に知識と経験を積んでいきました。

イネが最も力を入れたのは産科医療でした。お産は人の命がかかった現場です。当時の日本では「お産婆さん」が対応していたものの、合併症や難産になると成す術がないケースも多かったはずです。現在日本の妊産婦死亡率は出生数 10 万あたり 5 程度(0.005%)であり、極めてその死亡率が低い国のひとつとなりました。しかし今でも南スーダンでは妊産婦死亡率が 10 万出生あたり 1150 (1.15%)であり、江戸時代は抗菌薬も点滴もなく、帝王切開や麻酔の技術もないのでお産で命を落とすことは多かったはず。彼女は「女性がお産を無事に行うように手助けすること」を生涯の目標にしたのです。

イネは最新の蘭学知識をベースに、実践的な産科医療を学び、実地で多くの出産を手がけました。その腕前と知識は評判を呼び、「おらんだおイネ先生」として有名になります。

ちなみに、明治時代になるとその高名さから明治天皇の女官、葉室光子の出産に立ち会うなど、その産科学的技術は高く評価されました。蘭方医の間で女性産科医としてイネは唯一無二の存在だったのです。

イネが 30 代になるころ、追放されていたシーボルトが再来日します(1859 年)。シーボルト事件による発出されたシーボルト追放令が解除されたことによります。父と娘は、30 年ぶりに涙の再会を果たします。そしてシーボルトは「娘を本格的な医師として育てたい」と考え、自ら指導にもあたります。ただし、再会の時間は長くはありませんでした。シーボルトは再来日直後は幕府の対外交渉のための顧問として雇われますが、どうやら "お上" への提案・意見があまりにも多いため幕府側が辟易し、3 年後にその職を解任され、帰国し、その 3 年後にドイツで亡くなります。一説によると、すでにドイツで家庭をもつ父・シーボルト(しかもこの再来日時に息子アレクサンダー ← イネにとっては異母弟にあたる を同伴していた)にイネが失望した、ということで日本滞在中の父娘関係はあまり良くなかったらしいです。諸説ありますが。

明治維新を迎えた日本では、近代医療制度の整備が進みます。そのなかで、残念ながらイネは正式な「医師免許取得」はしていません。現代の医師国家試験に準じる「医術開業試験」を女性が受験できるようになったときにはすでに彼女は 57 歳という(当時としては)高齢で、断念せざるを得なかったからです。また、医学校で学問を修めた経歴がなく、官制の医師という資格からはみ出していた "実地医家" 的な存在であったことから、彼女自身もこの試験に対する価値をあまり高く捉えていなかったようです(「理論よりも実践!」という気持ちだったのかもしれません)。

しかし、イネのようなパイオニアが出てきたおかげで女性が医学を学び、診療にあたることは、もはや “前例がない” ことではなくなっていたのです。事実、イネの活躍がのちの荻野吟子(日本で初めて医師免許を取得した女性)らの登場につながっていきます。
つまりイネは、「制度的に初の女性医師」ではないかもしれませんが、実質的に日本で最初に医師として活躍した女性といえるでしょう。

楠本イネの人生は、医学史というより、時代と制度のなかで懸命に生き抜いた素晴らしい女性のドラマとして非常に魅力的です。鎖国下にある江戸時代における混血児としての孤独、父への憧れと再会を経てからの別れ、制度も理解も整っていない中での女性医家としての挑戦など。彼女は静かに、粛々と、自分の信じる道を歩んだのです。

2024 年、東京女子医科大学を除く 81 大学のうち、聖マリアンナ医科大、東邦大、弘前大、岐阜大、杏林大、兵庫医大、島根大、国際医療福祉大の 8 校は入学者割合の 50% 以上が女性です。

若い女性が医師を目指せること。女性医師が外科・内科・泌尿器科などあらゆる分野で活躍できること。これは当たり前のことなのですが、当たり前でなかった時代に奮闘した楠本イネ先生の冥福を祈って本稿を終了します。

写真は 楠本イネ 先生がやすらかに眠る、長崎市の曹洞宗・晧臺寺 にお墓参りに行ったとき(2019 年)に撮影させていただきました。お墓は恐れ多いので、顕彰碑をアップしておきます。

 

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