武田薬品工業 7 代目社長ー武田 國男 に学びたい。
先日武田薬品工業の歴史みたいなものを話しました。
Wikipedia によると、会社化してからの歴代社長は
- 初代:五代目 武田長兵衛(1925年 - 1943年)
- 2代目:六代目武田長兵衛(1943年 - 1974年)
- 3代目:七代目 小西新兵衛(1974年 - 1981年)
- 4代目: 倉林育四郎(1981年 - 1986年)
- 5代目: 梅本純正(1986年 - 1991年)
- 6代目: 森田桂(1991年 - 1993年)
- 7代目: 武田國男(1993年 - 2003年)
- 8代目: 長谷川閑史(2003年 - 2014年)
- 9代目: クリストフ・ウェバー(2014年 - 現在)
と記録されております。そのなかで院長が「偉人」と思うのは 7 代目、「最後の武田一族社長」、武田國男 氏です。
彼はもともと六代目武田長兵衛(本名: 武田 鋭太郎)の三男でした。鋭太郎は 七代目 武田長兵衛とすべく、長男・彰郎に帝王学を授け、三男である國男と教育や住居環境に歴然とした差をつくったそうです。國男は國男で甲南高校から甲南大学という、いわゆる「エリート校」ではない学校に進学します。それまで一回も受験のような真剣な勉強をしたことがない彼は講義についていけず、大学時代は、神戸・三宮でパチンコをするのが日課であったといいます。そのせいか就職も上手くいかず、結局父親の会社(武田薬品工業)に拾われますが、メインの医薬事業ではなく、完全に出世コースから外れた飲料水(院長が子どもの頃「プラッシー」というジュースがあり、これは武田薬品の製品でした)を売る部門に配属されました。親戚からは「武田の御曹司なのに(アホだから)砂糖水を売っている」と見下されたそうです。
そんななか、運命のいたずらか、彰郎は 46 歳で急死。このショックからか、鋭太郎は病床に臥せってしまいます。このときお見舞いに行った三男の國男が父親の顔を見たとき、彼は病床の父親の目が「なんでくだらんお前が生きとるんや。彰郎の代わりに、このアホが死んどってくれたらよかったんや」と語っていたと述べています。
その後、上記のように倉林・梅本・森田の中継ぎ社長を経てまさかの社長就任となります。この就任劇の立役者となったのが、「武田薬品工業の米国における社運を賭けたあるひとつの大きな選択」であったと言われています・・・。
この詳細はじっくり書きたいので明日に続きます。
人間万事塞翁が馬。