武田長兵衛という江戸時代の "お薬の仲買い屋さん" が創出した日本有数の薬品会社についてのおハナシ。
武田長兵衛という名前を聞いたことがあるでしょうか。江戸時代に小さな薬種商を営んでいた町人です。生まれは武士でも豪商でもなく、無名の町人だった彼は後世にまで残る医薬の名家を築きました。現在の武田薬品工業です。彼の足跡には、時代の波を読み、誠実を貫いた “商いの美学” があったと言われております。
彼が誕生したのは江戸時代、1750 年。暴れん坊将軍、吉宗の息子、家重の治世でした。当時の日本経済の心臓部である大坂・道修町(どしょうまち)で 1781 年 6 月 12 日に薬種商として独立し、今日につながる武田薬品工業の第一歩を踏み出しました。道修町は江戸時代から薬種商の街として知られたエリア。ここには、薩摩藩や幕府の「薬園」なども設けられ、全国の薬種商が集まっていたそうです。まさに “日本の製薬の台所” でした。
長兵衛が始めたのは「薬種商」。現在のように新薬を開発するのではなく、主に中国や日本国内の生薬(漢方薬の原料)を仕入れて調剤して販売する業態でした。しかし彼はただ薬を売るだけでは終わらなかったのです。
長兵衛の信条は「商いは信用第一」。この言葉、現代でもしばしば企業理念として掲げられますが、当時商人は(朱子学の影響により)「士農工商」で最も最下級の身分とされました。そのため 彼らは極めて現実的な考えで行動理念としており “商人は利を追ってナンボ” が主流してが、長兵衛はそういったスタイルとは一線を画していたようです。
彼は顧客から信頼を得るために、仕入れ先や商品の品質に徹底的にこだわりました。当時すぐれた漢方医の多くは幕府や藩の "お抱え" となっており、市井の町医者、ましてや薬屋などは薬の「ごまかし」や「虚偽」などが横行していた時代。そんななか、上記のような信念を貫いた長兵衛の薬は効果が高く、「本物だ」と評判になったと言われています。実際、長兵衛は薬の品質管理にあたって、検品や記録の精度を当時としては異例なほど厳格にしました。また、原料となる生薬についても長崎出島に出向いて中国やオランダの商館を通じて直接仕入れるなど、薬に関する "目利き力" も備えていました。この「信用第一」の姿勢は、のちの武田薬品工業の企業理念である「誠実=タケダイズム」へとつながっていきました。
武田長兵衛が薬種商として成功した理由として、“ブランド” という概念にも早くから目をつけていた、ということが挙げられます。例えば、商品を包む紙に「長兵衛印」として印を押し、薬の信用と共に “名” を売ったのです。これは現代の「ブランディング」の走りともいえる手法。テレビもなければ新聞もネットもない頃です。口伝や口コミが商売の命綱だった時代、「武田の薬なら安心」と町人たちが話し合うようになったそうです。また、販売エリアも大坂にとどまらず、江戸や京都、さらには地方都市にも広げていきました。これは今でいえばフランチャイズのような形で、信用網を広く日本全国に向かって築いていきました。
長兵衛自身が起こした薬種商は、代々「武田長兵衛」を襲名する家業として受け継がれていきます。特に近代に入ってからは、第 4 代長兵衛が明治時代における西洋文化・技術の国家挙げての導入、という大きな流れのなかで和漢薬と洋薬の二本建てから洋薬一本に切りかえ、第 5 代長兵衛が制度改革に乗じて会社組織へと移行。そして 1925 年、「株式会社武田長兵衛商店(現在の武田薬品工業につながる)」が設立されました。江戸時代に一人の町人が始めた薬屋は、国家の近代化・医療制度の変革と共に、日本有数の「製薬企業」となった瞬間です。
・・・なんだか武田薬品工業の社史編纂室員みたいになってきましたが、ひとつの巨大な日本企業が生まれてから近代までの歩みについて書いてみました。武田長兵衛の足跡をみていったとき、彼らの「信用」に関する妥協のなさがこの企業が生き残っている最大の要因ではないかと感じました。現代の企業経営者が何よりも苦労するのは「信用の構築」。広告や SNS では得られない「人が人を信じる力」。それを 250 年以上前に実践し、商売の中心に据えていた武田長兵衛。彼の生き方はクリニックを経営している院長にとって、背筋がピンと伸びるような気持ちにさせてくれるものでした。
明日は泌尿器科医が大変お世話になっている武田薬品工業のおクスリとそれにまつわる、「武田長兵衛襲名の終焉」について述べてみたいと思います。
企業の歴史は面白い!
