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細川忠興の持病

[2024.07.18]

戦国時代に異色をはなつ武将として細川幽斎(藤孝)がいます。

武将であり文化人。 実父は三淵晴員で,細川元常の養子となりました。 もともと 13 代将軍足利義輝の御供衆でしたが,義輝が松永久秀らに殺されるにおよび,その弟一乗院覚慶(義昭)を擁立。結局義昭も見限り信長の家臣に。さらに秀吉の時代になると秀吉の配下となった戦国時代の「マキャベリスト」です。

当時唯一であった「古今伝授(古今和歌集の解釈を中心とした歌道の真髄を一家相伝で伝えられている者)」伝承者ということで最高の教養人、一方で腕力も強く暴れる牛の角を掴んで投げたこともある怪力でした。

その息子が細川忠興です。

忠興も素晴らしい処世術で江戸開府後は大名として活躍しますが、眼病に悩まされたという記録が残っています。

現存する細川家史料で,慶長七年(1602 年) 6 月 24  日付で「此春より左ノ目見へかね申候,くすしともニ見せ候へハ,そこひにて候ハん由申候間」とあり,当時の眼科医によって治療がなされています。しかしながらその後に症状は悪化し,元和四年(1618 年)に家臣団が現在の福岡県小倉祇園八坂神社に眼病平癒を祈念したと記録されています。

江戸時代にかかわらず、近代以前では白内障により失明することはしょっちゅうあったでしょうし、カテーテルのない時代、前立腺肥大症で尿が出なくなったら腎不全になっていたでしょう。現在は様々な医療が当たり前のように受けられます。「昔はよかった・・・」みたいなことを言うひとがいますが、一臨床医としては現在のほうが医療に関してはずっと幸せではないかと愚考する今日のこの頃です。

江戸時代の小倉藩初代藩主。写真は Wikipedia より。

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