西洋の『エセー』に対して東洋の「随筆」は 500 年以上も早く発表されたことを誇りに思います。
世界の大著と呼ばれる本、いくつかありますね。皆様はなにか読んだことがあるでしょうか。トルストイ『戦争と平和』、ダンテ『神曲』、カント『純粋理性批判』、マルクス『資本論』、そして世界最古のものがたり、紫式部『源氏物語』あたりがそれらにあたるでしょうか。ただページ数が多い長編、というだけでなく発表時から現代にかけて社会に大きな影響を与えたり、読者がその思考様式を変化させるに至ったり、当時の考えを象徴的に表しているものが「世界の大著」なのでしょう。
"大著" まではいきませんが、それに肉薄すると思われるのがモンテーニュ『随想録(またはエセー)』。107 の随筆を集めた、1580 年に書かれた本です。これは西洋で書かれた初めての随筆です。この『随想録』、読んでみると結構多いのが医者に関する内容です。今回はそれをいくつか紹介します(関根秀雄 訳より)。
「医者の病人に対する最初の応対は、やさしく快活でなければならない。いまだかつて、醜い気むずかしい顔つきの医者が効を奏したためしはないのである」。
現在でもよく患者さんが「あの医者は無愛想で感じが悪かった」とか「もう少し笑顔で明るい感じで話してくれればいいのに」とか思うことはちょくちょくあるようで、いろいろな医療機関の Google レビューをみると、そんなハナシばかり書いてあります。ただし、これは思ったより大切なことで、いわゆる「プラセボ効果」です。すなわち患者さんが「この医者の言う事聞いたり、処方された薬飲めばきっと良くなるな ♪」と思えるような診察をするほど、早く快方に向かう、ということは実際にあります。病気とは、生理学的な異常であると同時に、生命の危機という、存在の不安にもつながります。人は弱ったとき、論理よりも雰囲気に影響されますので、われわれは "優しく" "快活である" よう努めないといけません。
「経験がしばしば教えるところによると、医者は最も不養生であり、神学者はかえって不品行であり、学者は誰よりも無能であるらしい。」
これは一見すると単なる毒舌ですが、それだけではありません。モンテーニュは「専門知と人格のズレ」を問いているのです。『革命哲学としての陽明学』を著し、そのなかで「知行合一」について何度も言及している三島由紀夫の論にもあるように、"知っていることと実践できることは全く別"。喫煙の害を熟知していても喫煙する医師がいて、運動の重要性を語る医師がクルマばかり乗って、健康診断を受けずに病院の事務に注意を受けてふてくされる医師がいる。これは医者あるあるです。知識は行動を保証しないのです。重要なのはモンテーニュは「医者が無能だ」と言ってるわけではなく、「人間は役割と人格を一致できるほどシンプルにできていない」ということを伝えたいように思います。専門性は局所的で部分的。人格は総合的で全体的。ヒトはしばしば自分の職業を通して自己像を作りますが、実態はしばしばそれと一致しない。モンテーニュはそのギャップをあえて笑い、われわれひとりひとりに注意を促しているように思います。
「一人の外科医者が経験から得た成果といえば、おおぜいの患者を手当したという自慢話でもなければ、四人のペスト患者・三人の痛風患者・を癒したという回顧談でもない。それは以上のような経験から、彼がその判断の基になるものを引き出すことができた、ということでなければならない。そのために医術を施すことにいよいよ慎重になった、ということを、我々に悟らせるのでなければならない」
これはもうそのまま現代の医師にとっても胸に響くコトバのように思います。「本当の経験」とは。それはあえて一言で表せば「経験を踏まえてなんらかの "原理原則" を抽出すること」。本当に学んだ医師は慎重で謙虚であるはず。450 年も前にわれわれに現代の "エビデンス" というコンセプトに近いものを示しているように感じます。
・・・いかがでしたでしょうか。450 年前であっても今のわれわれにビシバシ刺さる『随想録』。正直言って読みやすい書ではありませんが、現在は青空文庫でも読めるので、16 世紀と 21 世紀とで考え方やモノの捉え方についての共通点・相違点を確認するのに興味深い一冊だと思います。
ではなぜこれが "大著" と認定できないのかって?それはもうわが国で "世界最古の随筆" の随筆、しかも 300 段を超える『枕草子』が本書よりも 500 年以上前に生まれているからです。ちなみに院長は清少納言も、NHK 大河ドラマ『光る君へ』で "ききょう" (清少納言)を演じたファーストサマーウイカさんも院長は好きです。 現在放送中の『豊臣兄弟!』における 麿赤兒 さんの斎藤道三レベルで適役でした。
