40 年前に初めてドラクエをやったのは友達の家でしたが、その場所や部屋のレイアウト、その家のお母さんが持ってきてくれたお菓子とジュースを今でも覚えているくらい衝撃を受けました。
昨日のブログで 1986 年が舞台の小説、『十角館の殺人』について、その小説と実写化について熱く語ってしまいました。大好きな作品なのでつい熱く。この年を語るうえで、自分にとってもうひとつ外すことのできないものがあります。
それが日本にロールプレイングゲームを知らしめることになった名作中の名作、『ドラゴンクエスト』です。1986 年 5 月 27 日、ファミリーコンピュータ用ソフトとして第 1 作『ドラゴンクエスト』が発売されました。
今でもラダトーム城 ⇒ ラダトームの街 ⇒ ロトの洞窟(たいまつの明かりが小さくてなかなか最初は迷いました) ⇒ ガライの街 ⇒ ドムドーラに行く途中の洞窟 ⇒ マイラの村 ⇒ リムルダールへの海底洞窟 ⇒ リムルダールの街 ⇒ ドラゴン倒してローラ姫救出 ⇒ ガライの墓 ⇒ メルキドの街 ⇒ ドムドーラの街で悪魔の騎士倒してロトのよろい入手 ⇒ ロトのしるし入手 ⇒ 虹の橋かけて竜王の城へいってラスボス倒してエンディング・・・くらいはそらでいうことができます(ここまでの記述、一切何も見ずに書いています。本当です)。そのくらいやりこみました。
それからちょうど40年。今では "(ロールプレイングゲーム =)RPG" という言葉を知らない人のほうが少ないでしょう。主人公がいて、町で人々から話を聞き、武器を買い、フィールドへ出てモンスターと戦い、経験値をためてレベルアップし、やがて世界を脅かす敵を倒す。あまりにも当たり前のゲームの文法です。
しかし 1986 年当時、それは決して当たり前ではありませんでした。自分が子どもだった頃、ファミコンというものには独特の魔力がありました。電源を入れる。テレビ画面がゲームの世界に変わる。たったそれだけのことなのですが、自宅のテレビの向こう側に別の世界が存在しているように感じられたものです。
今のゲームと比べれば、初代『ドラゴンクエスト』の世界は驚くほど小さい。主人公はひとり。主人公は常に画面のわれわれのほうを向いており、敵も一匹ずつしか現れません。街の人々の台詞も短い。映像はドット絵。音楽も限られた音源で奏でられています(あと細かいことですが、カナカナの「ク」を容量の関係で登録できず、「ダークドラゴン」が「ダースドラゴン」になっていたりします)。セーブデータさえなく、「ふっかつのじゅもん」と呼ばれる長い文字列を書き写さなければならない。
最近は時間がなくゲームを全くやっていませんのでわかりませんが、2026 年のゲームから見れば、不便なことだらけです。ところが、そんな不便な世界なのに。不思議とあの世界は広かったんです。なんだか途方もなく。街を出て、草原を一歩あるく。さらに一歩。すると突然、スライムが現れる。わずかなゴールドと経験値を手に入れ、少しずつ強くなっていく。
遠くに見えている場所(ドラクエ 1 は最初から最終的なゴールである「竜王の城」が対岸に見えています)へ行ってみたい。しかし強いモンスターが出てきて倒される。それなら装備を整えよう。あと少し経験値をためよう。そんな単純な繰り返しなのに、院長は本当に「冒険している」と感じていました。なぜでしょう。
おそらく、足りなかったからです。映像も音も説明も。だから、その足りない部分を子どもの想像力が埋めていたんだと思います。
ドット絵の城を見れば、その向こうに巨大な城を想像しました。
数音で表現された洞窟の音楽を聞けば、本当に暗い洞窟へ入ったような気がしました。
数行しか話さない町の人にも、その人なりの人生があるように思えました。
技術的な制約が、かえって想像力を広げていたのです。
小説のほうが漫画よりも想像力が膨らんでいろいろと情景を思い浮かべられて楽しい、というのとよく似ている感じです。
40 年後の 2026 年。ゲームの世界は超リアルになりました。キャラクターは表情豊かに動きます。広大な世界を自由に歩けます。音楽はオーケストラで演奏され、ムービーは映画と見分けがつかないほど美しい。インターネットにつなげば世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶこともできるらしいです。そして『ドラゴンクエスト』自身も何度も姿を変えながら生き続けてきました。2025 年には HD-2D 版『ドラゴンクエスト I&II』も登場したそうです。自分は残念ながら、(高校の同級生ふたりに、ありがたいことに 「Ninendo Switch」をお祝いでもらったので『ドラクエ 11』を買ったのですが、息子は何回もクリアしたそうなのに)日々の仕事に追われてまだプレイできていません。
子どもの頃なら、新しい『ドラクエ』が手元にあってプレイしないなど考えられないことでしょう。発売日まで指折り数え、学校から帰れば即座にファミコンの前に座ったはずです。ところが大人になると、ゲームを買うお金はあります。しかし時間がありません。皮肉なハナシですね。子どもの頃には時間はたくさんあるけれど、お金がない。大人になるとお金は多少自由になるけれど、時間がない。人生というのは、なかなかうまくできています。
そこで今年、院長は HD-2D 版の『ドラゴンクエスト』がどんな作品になっているのか、YouTube などでそのさわりを眺めてみました。40 年前のゲームが、現在の技術で再構築されています。美しい背景。滑らかに動くキャラクター。現代的になったシステム(『ドラクエ II』は 3 人だったのが 4 人になっていてびっくり)。間違いなく進化しています。
しかし映像を眺めていて、ふと思いました。自分が見ているのは「新しいドラゴンクエスト」であると同時に、「自分が子どもだった頃の記憶」でもあると。ラダトーム。アレフガルド。スライム。ドラキー。竜王。それらを目にすると、単にゲームのキャラクターを見ているだけではなく、その名前を初めて知った頃の自分まで一緒に蘇ってきます。
名作は「作品そのもの」だけを保存しているのではありません。それを体験したときの自分まで保存しています。だから 40 年後にあのオープニングの音楽を聞いた瞬間、一気に小学校 3 年だったあの頃へ戻ることができます。そして『ドラゴンクエスト』にはもうひとつ、40 年間変わっていない大切なものがあります。それが「少しずつ強くなる」という考え方です。
最初の勇者は弱い。いきなり竜王とは戦えません。スライムを倒す。ドラキーを倒す。ゴールドをためる。少し良い武器を買う。また少し遠くまで行ってみる。失敗する。戻ってくる。レベルを上げる。そして昨日は勝てなかった敵に、今日は勝てるようになる。考えてみれば、これは人生そのものです。仕事でも、勉強でも、スポーツでも同じ。いきなりレベル 30 にはなれません。地味な経験値を積み重ねるしかない。
しかも現実世界には「あと経験値を 125 獲得すればレベルが上がります」と表示してくれる親切なシステムすらありません。それでも続けていれば、ある日ふと以前できなかったことができるようになっている。おそらく自分たちの世代は、『ドラゴンクエスト』から知らないうちにそんな感覚も教えてもらったのではないでしょうか。
1986 年 5 月 27 日。一本のファミコンソフトから始まった冒険は、40年たっても終わっていません。グラフィックも変わり、ゲーム機も変わり、遊び方も変わり、なによりプレイヤーだった子どもも、すっかり大人、というか中年になってしまいました。
でも、「次の街まで行ってみよう」と思う気持ちは変わらない。40 周年の『ドラゴンクエスト』を眺めながら、そんなことを考えました。自分の人生もまだ、レベルアップの途中だと良いなぁ。
