90 年くらい前の英国におけるひとつの問いが現在の新薬・新規医療技術確立のために必要な統計的手技法になったハナシ。
院長はコーヒーがが飲めません。お腹が痛くなってしまうのです。そのためレストランなどで「食後のお飲み物は?」とか聞かれると、まずは紅茶を選択します。さらに泌尿器科医の立場から、紅茶に比較的多く含まれるシュウ酸摂取による尿路結石形成予防のため、シュウ酸と同時にカルシウムを摂るために、「ミルクティーお願いします」と答えることが多いです。
このミルクティー、かつて英国でこんな対立がありました。
(1) 先にミルクを入れたカップに紅茶を注ぐ派
(2) 先に紅茶が入っているカップにミルクを足す派
です。皆さんはどちらが美味しいと思いますか?実はこれは有名なハナシで、現在の創薬にも影響を与えているある統計学的手法のきっかけとなった命題です。
この命題を解決したのが、現代における推計統計学の確立者、英国のロナルド・フィッシャー卿。「実験計画法(Design of Experiments)」の生みの親です。
ある日、フィッシャーは、「ミルクを先に入れた紅茶と、紅茶を先に入れてからミルクを注いだ紅茶は、味がまったく違う」と豪語する、ミュリエル・ブリストルという婦人がいることを知りました。しかも彼女は、「自分は目隠しでも、その違いを絶対に当てられる」と言い切るのです。
ここで普通の研究者なら「なるほどそうですか」と言って済ませるか、「では 1 杯ずつ飲んで当ててください」と簡単なテストをしそうですが、フィッシャーは違いました。
彼は婦人の主張を検証するために厳密な試験設計を用意しました。
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8 杯のミルクティーを用意(そのうち 4 杯はミルクを先に注ぐ、残り 4 杯は紅茶を先に注ぐ)
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どれがどちらかは婦人に伝えず、無作為(ランダム)に並べる
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婦人には、どれがどちらの作り方かを当ててもらう
この試験がまさに、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial: RCT ー研究の対象を 2 つ以上のグループに無作為(ランダム)に分け、治療法などの効果を検証する統計学的手法。効果を公平に比較できるので、信頼性が高い試験です)の原点となったのです。
さて、皆さん気になるのは「その婦人は本当に当てられたのか?」ということでしょう。
答えは……彼女は 8 杯すべてを当てたのです。しかも完璧に。当てずっぽうに答えた場合に "すべてを当てる確率" は 1/(2 の 8 乗 =256) = 0.39% ですから、彼女の鑑別能力は「本物」と認めてよいでしょう。
ここでフィッシャーは「この婦人はすべてを当てることができたが、これが偶然か、それとも本当に判別できる力があるのかを統計学的に検証しなければならない」と考えます。
この考えが、帰無仮説・p 値・有意水準(ここでは解説しませんので興味ある方は是非ググってみて下さい)などの、今日の臨床試験における基本概念へとつながっていきました。
現代の新薬開発、特にフェーズ III という、「ある新薬が、多数の患者さんについてフェーズ II の結果から得られた「くすりの候補」についての有効性・安全性・適切な投薬法などを多くの患者さんに参加していただき最終的に確認する」、 この重要度の高いステップでは、この“ミルクティー婦人方式”とも言える「無作為割付」が基本です。
たとえば、ある新薬が「高血圧を改善する効果があるかどうか」を調べる場合:
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被験者をランダムに「新薬群」と「従来薬群」に分ける
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どちらの群に割り当てられたかは、患者も医師もわからない(二重盲検)
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一定期間後に効果を比較し、偶然では説明できない差があるかを評価する
現代医学においても、「新薬の効果」は「ミルクを先に入れたか、後に入れたか」をブラインドで飲み分けたあの婦人の舌の延長線上にあるのです。
フィッシャーがこの検証について報告したのは 1935 年です。つまり、発表から 90 年もの時間を経たあとでもひとつの検証法がわれわれの医療に大きく影響を与えているということです。なんだかロマンを感じますね。
ちなみに冷静に考えてみれば、料理がほとんどできない院長でもときどき必ず作る、大好きな「サッポロ一番みそラーメン」。これを作るときも茹で上がった麺が入っているラーメンどんぶりにスープを注ぐより、スープが入ったどんぶりに麺を入れるほうが美味しいと感じますので、やはり「"物事の順序" は大事」と実体験より痛感しています。統計は得てして「机上の学問」みたいにで分かりづらい、と言われることがありますが、こういった「腑に落ちる実体験」が伴ったほうが理解が深まります。
皆さんも、なにか統計学的な問いかけや謳い文句(シェフの 90% 以上がこのコーヒーが美味しいと答えました、みたいな CM など)を見たら、自分の実体験などに照らし合わせて「本当にそうかな?」と立ち止まってみると変に騙されたり丸め込められなくてよいかと思います。最近の YouTube 内の広告動画などはこういった誘い文句が多い気がしますので。
最後に、2003 年の英国王立化学会による研究で、「高温の紅茶に常温のミルクを注ぐのと、常温のミルクに高温の紅茶を注ぐのとでは、ミルク分子の状態に違いが生じる」ことが明らかになりました。この研究によるとミルクを先に入れたほうが、ミルクのタンパク変性が少なく美味しいミルクティーになるということです。参考までに。