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Abema プライムの番組情報ですが、世界 9 カ国の核弾頭数はゆうに 1 万発を超えるのだそうです。

[2025.10.06]

1945 年 7 月 16 日。中学生の少女たちが米国・ニューメキシコ州でキャンプをしていました。彼女たちは川ではしゃぎながら泳いでいましたが、ほんの数十キロ離れた場所で、人類初の原子爆弾が爆発していたことなど、まったく知る由もありませんでした。それがトリニティ実験です。

のちに、キャンプをしていたバーバラ・ケントはこのように語っています。「わたしたちは皆、ただショックを受けました…そして突然、頭上に大きな雲が現れ、空に光が現れました。見上げると、目が痛むほどでした。空全体が奇妙な色に変わりました。まるで太陽がものすごく出てきたかのようでした。」 数時間後、白いフレークが上から降り始めたと言います。興奮した少女たちは水着を着て、吹雪の中で川で遊び始めました。「私たちはこの白いものをすべてつかんで、雪だと思って顔中に塗っていました」とケントは言います。「でも奇妙なことに、雪のように冷たくなく、熱かったんです。そして私たちは皆、『まあ、熱いのは夏だからだ』と思いました。私たちはまだ 13 歳でした」。

少女たちは、「それ」を雪だと思ってはしゃぎ、喜びながら水着姿で川に入りました。笑いながら顔に塗りつけ合い、「夏に雪だ!」と大はしゃぎしたのです。「それ」は放射性物質の粉塵でした。爆心地から 40 マイル。その午前 5 時 29 分、原爆は爆発しました。
けれど、周囲の町には何の通達も避難指示も出されなかったのです。爆発の前も、後も、誰ひとり守られることはありませんでした。

放射性の灰は数日間降り続け、ケントといっしょに遊んでいた少女たちは——全員、がんを発症し、30 歳を迎える前に全員絶命しました。30 歳まで生きたのはバーバラ・ケントだけ。しかし彼女も、人生の中で複数のがんに罹患することになります。

トリニティ実験は決して例外ではありません。オーストラリアのマラリンガでも核実験が行われ、アボリジニの命が多数奪われました。しかしながら、当時の世界はその事実を報道することもしませんでした。時代のせい、と言ってしまえばそれまでなのでしょうが。

そして原爆は、1945 年に 8 月 6 日に広島、8 月 9 日長崎に投下されました。

先日、映画『オッペンハイマー』の予告編を観ました。われわれは原爆を作った「英雄」について知ることができます。また、「原爆投下によって勝利を確定できた」と主張する連合国側、特に米国の主張を知ることも容易です。

しかしながら、原爆の実験で命を落とした少女たちや広島・長崎で原爆の犠牲になった全く名も無いひとたちのことを知ることは適切な文献の渉猟(しょうりょう)が難しく、簡単ではありません(最近では こうの史代 先生の漫画『夕凪の街 桜の国』が秀逸だと思います)。

院長は自分自身を右翼とか左翼とか意識したことはありませんが、「核武装が安上がりで最も安全を強化する政策」とか「核兵器により世界の平和が維持されている」とかいきなり言われると、少し眉をひそめてしまいます。あまり専門的な書籍や論文にあたったことがないので素人考えですが、日本人は唯一の核被爆国として、核そのものに対するスタンスの取り方は慎重であるべきではないでしょうか。

・・・誰かくわしい方、是非院長にいろいろと教えて下さい。好戦的ではなく穏やかな態度で。

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