夏が来ればいろいろ思い出す-20 年前の手紙
院長は 2001 年に大学を卒業したのち茨城県で当時最大の施設であった土浦協同病院に 2 年半 ほど勤務しました。
三次救急の患者さんがどんどん搬送されるような病院で、交通事故による腎外傷・尿路感染症でショック状態など、重症患者さんに全力で診療する充実した日々を送りました。泌尿器科の常勤医が 4 名いたのですが自分が最も若かったので週に水曜日・金曜日・土日は月に 2 回に電話当番でしたので本当によく呼び出されました。当時は当然働き方改革などはなく、夜中でも必要ならすぐに病棟や救急外来に行って落ち着くまで診療して午前 3 時帰宅、その 3-4 時間後には翌日の通常勤務開始なんてのは日常茶飯事で、野戦病院のようでした。
そんな感じで忙しく過ごしていた自分におばあちゃんが送ってくれた手紙が下です。2004 年 8 月のもの。筆まめでしょっちゅう手紙を書いてくれました。大正生まれでしたがおばあちゃんは本当にスマートな考え方をされる、平成・令和でもおそらく通用するであろう頭の良い女性でした。
字をみてください。達筆でしょう。写真のように旧字体を行書で使用するので大学生くらいになるまではなかなかスラスラとは読めませんでした。しかし日本史好きが高じて旧字が少しだけ読めるくらいになった 20 歳頃からはなんとかつっかえることなく読めるようになりました。一応書き下ししておきます。
今年は東京へお勤めになるとよいですね(翌年から東京・上池袋の癌研究会付属病院へ転勤することが決まっていた).
土浦も城下町でなかなかよいところの様で一度行ってみたいと思い乍(なが)ら歩くのに自信がなくなりました.
先日寒川神社へお参りして八方除、車のお守りをお送りします. 前年のを取かえてください
では体に気をつけてお仕事お励み下さい
バーイ
ふさ子(「ふさ」が変体仮名で書かれています。漢字だと富佐子と書きます)
好信さま
・・・最後の「バーイ」がかわいい。本当に素敵なおばあちゃんでした。
戦争で亡くなってしまいましたが富佐子さまの夫、院長にとってのおじいちゃんにあたる 駒井勤之助(こまい きんのすけ)さま も、ものすごく達筆でした。戦地から家族に向けて書いた手紙が 100 通以上実家に残っています。白紙の便箋に、まるで罫線があるかのようにキレイにまっすぐの行書で書かれており、昔のひとの「字を書く力」にただただ驚嘆します。いつか紹介します。涙なしではなかなか読めない内容ですが。