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時代は少しずつですがきちんと進んでいる・・・と信じています

[2024.09.13]

最近よく「昔はよかった」という言葉を聞きます。映画『ALWAYS 3 丁目の夕日』とかを観てかつての活気ある日本を懐かしむのも別に悪いことではないでしょう。

しかし MLB で二刀流の大活躍をする大谷翔平選手しかり、遠隔で顔を見ながら通話できる LINE や Facetime や ZOOM しかり、比較的短期間の経験で人の手よりも繊細な手術を可能にする手術ロボット・ダビンチしかり。どれも 20 年前に想像できたでしょうか。やはり時代は進んでいき、未来は明るいものと信じたくなります。

われわれ医師が、いかに研修医や若手レジデントであっても一生懸命働いているのだからしっかりとその働きを「労働」として認めてくれるようになったきっかけになったのが 1998 年に起こった「関西医科大学研修医過労死事件」です。・・・ということはそれまで研修医は「医学教育」という名のもとに「タダ働き」または「ものすごい安価で都合のようい労働力」として酷使されていたわけです。

詳細は Wikipedia などを参照していただきたいのですが、本当にこの研修医(26 歳)の過酷な日々は涙無しには読めません。この先生は疲労困憊の状態で土曜日にも関わらず午後 2:00 まで病棟で診療を行い、その翌日の日曜日に「病院に出勤せず電話にも応答しないため」父親がマンションに行ったところ、前日と同じ服装ですでに心停止の状態でした。

日曜日なのに「病院に来ない」ことが不審に思われてしまう状況。院長はこのことがよくわかります。医師 15 年目くらいになるまで本当に土日祝日年末年始関係なく、毎日必ず病棟患者さんの顔を見に行っていたので(この時間をすべて残業・時間外勤務として計上したらかなりの額になると思いますが、「残業は ◯◯ 時間までにせよ」という上からの指示を受けていたのでそんなことはとてもできませんでした)、病棟の看護師が「いつもあの先生来るのに今日は来てない。なんでだろう」と「365 日病院に来るのが当たり前」になってしまうのです。

いずれにせよこの事件をはじめ、同時期に起こったいくつかの研修医過労死事件がようやくマスコミで問題視されるようになり、2001 年に院長が大学で研修医となる頃には一応若手医師も「労働者」として認められていました。ただし昨日記載したように大学からの月収は 11 万円程度という、医師免許を持っている人間の給与としては悲しいほど低い額におさえられていました。

現在は研修医の身分は保証され、医師 1 年目の平均が 450 万円となっているようです。決して十分な額とはいえませんが、病院の立地などによる家賃の違いもあると思いますのでまあ昔よりは改善されていると思います。

世の中は進歩しています。そう思わないと気持ちよく明日を迎えることができない気がします。医療業界は旧態然としているとよく言われますが、今後は「患者さん・医療者・社会」が "三方よし" となるような未来を見据えて日々診療をしていきたい院長でした。

 

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