利根川進先生が遺した医学の "パラダイムシフト" と哲学的ともいえる思考について改めて思いを馳せる。
[2026.07.23]
院長は 1995 年 4 月に大学に入学したのですが、1 年 と 9 ヶ月はいわゆる「一般教養」で、医学の講義・実習は行われませんでした(現在の母校では 1 年生から臨床実習があるそうで、「医学生に早く医療に触れさせる」という意味でそのほうがよいと思います)。そのため 1997 年の 1 月までは高校の延長で物理だの生物だの数学だのをやらされます。「医学部入ったのにまだ数学とかやるの・・・」という感じでちょっとキツイ時期でした。場所も「東京」医科歯科大なのに教養は千葉県市川市のキャンパスで行われるので遠かったですし。
そしてようやく 1997 年、医学の講義・実習が始まるのですがこれが大変!解剖学・組織学・生化学・生理学・遺伝学・神経解剖学・神経生理学などなど。とにかくまったく休み時間のない午前中講義ビッシリ、午後は実習ガッチリの時間割をひらすらこなしていく時期が始まります。まあ、当時実習はともかく講義については出席がそれほど厳しくなかったのですが。その頃、おそらく 1997 年の 6 月くらいだったと思いますが、「免疫学」の講義で「これがノーベル医学・生理学賞をとった研究だ」として先生が教えてくれたのが「抗体が多様性を獲得するための遺伝的メカニズムの解明」でした。この業績は先日逝去された 利根川進 先生によるもので、免疫の先生が誇らしげに講義されていたのを覚えています。学期末のテストもその業績についての研究内容を答えさせる問題でした。今回はその研究を紹介してみましょう。
1987 年、利根川先生が日本人として初めてノーベル生理学・医学賞を受賞した理由は、単なる現象の観察ではありませんでした。「生命の設計図である DNA は、個体の生涯を通じて不変である」という当時アタリマエのように信じられていた概念を覆した、画期的な発見だったといえます。利根川先生の業績は、限られた遺伝情報からいかにして無限の多様性が生まれるのかという、生命の論理的矛盾ともいうべき事象に迫るものでした。
まず利根川先生が 1976 年に発表した制限酵素を用いた画期的な実験では、「胚細胞(胎児)の状態では離れていた DNA の断片が、成熟した B 細胞(体内に侵入した細菌やウイルスなどの異物を排除する「抗体」を作り出すリンパ球のひとつ)においては物理的に組み換えられ、連結されているということが示されました。これが「遺伝子再構成」です。
このプロセスにさらに「DNA ポリメラーゼ」と呼ばれる酵素群についての多様性の付加についてのメカニズムを示すことで、ヒトが無数のウイルスや細菌(異物)に対応できることをを遺伝子レベルで解明。上記のように当時は「遺伝子は変化しない」と信じられていたので、この発見は極めて新しい概念であり、ヒト免疫の多様性を説明するひとつの大きな基礎知識となりました。
また、利根川先生が拓いた基礎研究は現在、難病の診断や最先端の治療法として臨床応用されています。 臨床の現場において、先生が発見した酵素である RAG1/RAG2 (RAG は Recombination-Activating Genes = 組換え活性化遺伝子 の略で、脊椎動物において、リンパ球(B 細胞と T 細胞)が多様な病原体に対応するための「抗原受容体」を作り出す際に必須)の変異は、重症複合免疫不全症(先天的にリンパ球に欠陥が生じている遺伝疾患。5 万人に 1 人ほどの割合でみられ、造血幹細胞移植を行わなければ多くは乳幼児期に感染症で亡くなります)などの先天性免疫疾患として発現します。これは単に「免疫細胞がない」疾患ではなく、分子レベルでの「編集ミス」が個体の生存に関連することを示しています。
そこから徐々に RAG が「免疫学的に生存を維持するためのシステムのひとつ」ということがわかってきて、現在実際に用いられている治療である「CAR-T 細胞療法(患者さん自身の T 細胞(免疫細胞)に遺伝子改変を加え、がん細胞を強力に攻撃させる免疫療法)やモノクローナル抗体医薬(ウイルスやがん細胞などの特定のターゲット(抗原)にだけ結合するよう人工的に作られた抗体を活用した医薬品。ピンポイントで病因を攻撃するため、高い治療効果と少ない副作用が期待できる次世代のバイオ医薬品)の創薬へとつながりました。
さらに利根川先生の凄さは、その実験データもさることながら、圧倒的な "思考の深遠さ" にあるのかもしれません。(この方も知の巨人ですが)立花隆 氏との対話集『分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか 精神と物質』は、1993 年の出版ですが、今読んでもなお学ぶべきところが多い名著です。「分子生物学は精神の謎を解けるのか」という問いに対し、先生が示した冷徹なまでの科学的リアリズムは、後進の科学者に影響及ぼすこと大だったと思います。この書のなかには専門用語を用いずに、生命科学の本質を突くような金言が多く含まれており、(院長も正直いって全部理解できないのですが)その科学的論理で生命科学を解明しようとする姿勢は、われわれ臨床医が日々の診療を「科学的」に」行ううえでの基礎となりうるコンセプトと感じました。
偉大なる医学研究者、利根川進 先生に、心からの敬意と哀悼を表します。
