小さな診療所であっても、患者さんを健やかにするための診療を行うにはまずはスタッフに健全な労働環境を提供しなければなりません。
[2026.07.18]
院長として日々当院で診療をしておりますが、秦野地域におけるいくつか企業で嘱託産業医業務も仰せつかっております。一見関わりのないように見えるかもしれませんが、産業医は従業員の健康を守る大切な役割を担っております。健康診断結果をみて「この数値なら受診を強く推奨します」などの通知を出すことで地域住民皆様の健康増進につながりますし、職場巡視により「このコードは転倒のリスクにつながるので被覆しましょう」とか「この機器は地震が起きると危ないので固定しましょう」とか助言することで余計な外傷の予防にもつながります。産業医となってまだ 2 年半のヒヨッコですが、その業務内容の重要さを日々認識しております。これからも、先方から求めてもらえるかぎり続けさせていただこうと思っています。
そんな産業医業務、最近多く占めるのが従業員の方のメンタルヘルス、すなわち「心のケア」です。現在、多くの(特に中小の)企業経営者が「深刻な人手不足」や「採用難」に悩まされています。こうした状態において従業員のメンタルヘルス対策は、「大企業の」や「余裕がある時の福利厚生」と捉えて後回しにするのは、極めて危険な経営判断、という時代になってきました。
厚生労働省の調査によれば、従業員 50 人以上の事業場では 94% が対策を講じている一方、30 人未満の小規模事業所では 50% 程度に留まっています。小規模事業場の 34% が「取り組み方が分からない」と回答しているのが現状ですが、実はメンタル不調によるダメージをより致命的に、かつダイレクトに受けるのは、リソースの限られた中小企業のほうです。その現実を見ていきましょう。
まず週刊誌の見出し的に言えば "衝撃の事実" なのが「小規模事業所では "1 人の休職が大企業 100 人分のインパクトがある」です。大企業と中小企業では、従業員 1 人が欠けることの重みが根本的に異なります。例えば、従業員 1 万人規模の企業で 1 人が休職しても、喪失するマンパワーはわずか0.1% です。代わりの人員配置も容易で、組織としての機能低下は最小限に抑えられます。 しかし、10 名の小規模企業で1人が離脱すれば、瞬時に「10% のマンパワー」が消失します。これは大企業でいえば、一度に1,000人がいなくなるのと同等の経営衝撃(ショック)です。アタリマエのことですが、実際に数字にしてみるとちょっと恐ろしいほどの影響ですね。さらに恐ろしいのは、負の連鎖による組織崩壊のリスクです。1 人の穴を埋めるために残された社員に負荷が集中し、さらなる不調者を生む「うつ病の連鎖」は、中小規模の組織ほど容易に起こります。実際、支社長 ⇒ 次長 ⇒ 課長、と順に過労で倒れ、最終的に支社が閉鎖に追い込まれた事例を聞いたことがあります。その事業所は 60 人ほどで構成されていました。特に現在は超過勤務が社会的にかなり厳しい時代です。いわゆる "ヒラ社員" に残業を強いることは出来ません。そうなると必然的に「長」の役職がついているひとが大きな負担を背負うカタチになりますし、若い世代のなかでは「出世なんかしたくないよ」という意見もあり、「〇 長」のポストも簡単には埋められなかったりします。いろいろな影響力により、1 人の従業員が休職・退職したときのダメージについて、中小企業の場合は大企業よりだいぶ大きいのです。そうなると中小企業にとって、社員の心の健康を守ることは、組織の「急所」を守ることに他ならない、といえます。
さらに職員の休職が「メンタルヘルス不調による病欠」である場合(最近はこのケースが少なくないのですが)、問題は少し大きくなりやすいです。メンタルヘルスの不調は長期化しやすく、1 ヶ月以上病欠した労働者の平均休業日数は約 5 ヶ月に及ぶ、というデータもあります。そのケアは大変重要ですが、しかし一方で経営者が直視すべきは、目に見える欠勤日数だけではありません。不調を抱えながら働くことによる生産性低下(プレゼンティーズム)や、復職後のリハビリ期間を含めると、実質的には「8ヶ月分」の労働損失が発生していると算出されており、 これを経営指標に当てはめると、たった 1 人のメンタルヘルス不調による休職が、その年度の営業利益を数%、あるいはそれ以上ダイレクトに押し下げる計算になります。さらに見過ごせないのが「キャッシュアウト」のリスクです。長時間労働やパワハラを放置し、労災認定に至った場合、過去の極端な例を挙げると 1 事案で ◯千万円以上の損害賠償を命じられた事例も存在します。1 人の離脱を防ぐことは、数千万円規模の損失を回避する、極めて「利益率の高い投資」といえるかもしれません。
そのうえ職場のメンタルヘルス環境は、ここ 10 年で急激に悪化しています。 日本経済新聞のデータによれば、特に 25〜34 歳の若手世代において、精神的な理由による傷病手当金の支給件数は 10 年で約 3 倍に激増しています。グラフを精査すると、他の世代も上昇傾向にありますが、若手の角度の急峻さは際立っています。かつての「根性論」が通用しない背景には、SNS 等により常に周囲の視線にさらされる環境や、価値観の多様化があります。 多くの小規模事業所が「取り組み方が分からない」と足踏みしている間に、貴重な若手人材は静かに心を折られ、戦列を離脱していきます。時代の変化に合わせた管理体制へのアップデートは、もはや「待ったなし」の課題といえるでしょう。
「仕事量を減らす余裕などない」という意見もありますが、スウェーデンの心理学者カラセックによると、「 ストレスの最大の要因は "業務量そのもの" よりも、"自分の意思でコントロールできない裁量権のなさ" にある」とされています。経営者による過度なマイクロマネジメントは、社員の心を折る最大の原因です。上司の判断待ちで仕事が止まるストレスや、「やらされ仕事」の徒労感こそが、最も社員を疲弊させます。仕事の要求度が高く、なおかつコントロール度が低い状態だと、うつ病になる可能性が 1.4倍、心臓病になる確率が 2 倍まで増加すると言われています。仕事の総量を変えずに、社員の心理的負荷を軽減するための具体的なアクションは以下のようなものがあります。
・スケジューリングの自由度向上: 業務の順序を個人の裁量に任せる。
・サブリーダーの設置: 忙しいリーダーの判断を待たずに相談・確認ができる中間層を設ける。
・現場の意見の反映: 創意工夫を奨励し、上意下達ではない「参加型」の業務設計を行う
特に、われわれ医療業界や介護・運輸・建設といったエッセンシャルワークにおいて、メンタルケアは「人命」に直結します。これらの現場は多くの中小企業が支えていますが、同時に「一歩間違えれば重大事故」という極限のストレス下にある事業所でもあります。データによれば、強いストレス状態では事故の発生率が約 2 倍、周囲のサポートが欠如していれば 2〜3 倍にまで跳ね上がります。 Google も提唱した「心理的安全性」とは、単なる仲良しグループを指すのではありません。不調やミスを隠さず、即座に共有できる状態を作る「最強のリスク管理インフラ」です。
ミスを叱責で封じ込めれば、現場は萎縮し、さらに大きな事故を招きます。心の健康を整えることは、事業を停止させかねない重大トラブルを防ぐための、最も合理的で安価な安全対策といえるでしょう。
現在のような働き方を続ける場合、悲観的な予測では 2030 年に日本全体で千葉県の人口に匹敵する 644 万人の労働力が不足する、というデータもあります。この激動の時代を生き抜くために「選ばれる職場」の条件は、と問われればそれは、「社員が心身ともに健康で、自らの裁量を発揮しながら長く活躍できる環境を提供しているところ」になるでしょう。メンタルヘルス対策は、もはやコストではなく、中小企業が持続的に成長し続けるための「生存戦略」そのものといえるかもしれません。
・・・上記のような文章を書いてみて、院長はあらためて「われわれのクリニックでスタッフの裁量権を増やすとしたらどのあたりの業務にしようか」。そんなことを考えながら明日・明後日の休日を有意義に過ごしたいと思います。いつも一緒に診療してくれるスタッフの熱意と姿勢に感謝しながら。
