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絵画における巨匠の名前を冠した喫茶店にむかしよく行っていました(コーヒー飲めないのに)。

[2026.07.17]
「喫茶室ルノアール」。関東、特に東京を中心に店舗を構える昔風スタイルの喫茶店です。このルノアールさん、スターバックスとかタリーズとかドトールとか現代風の喫茶店がこれだけ台頭してきても生き残っている理由が、意外なことに「立退料」だそうで(詳しくはhttps://note.com/mrym_res_office/n/na92b1e80da4a など読んでみてくだだい)。「閉店するほど儲かる」という不思議な業務形態となっているお店なんです。面白いですね。かつて母校の東京医科歯科大学の敷地内(歯学部の地下だったと記憶しています)にもあったので、よく講義の合間や講義をサボって(おっと!昔のハナシです)利用していました。なんとなく落ち着いた雰囲気で良い感じだったので。
 
この店舗名の由来はもちろん画家、オーギュスト・ルノワール(1841–1919)にちなみます。「幸福の画家」として知られる彼のまばゆい色彩の裏には、二十数年にわたる「慢性関節リウマチ」との壮絶な闘いがありました。医史学的な視点から、彼の「色彩の奇跡」を紐解いてみましょう。
 
第 1 章:職人から巨匠へ——ルノワールが愛した「美しき世界」
ルノワールの芸術家としての原点は、フランス中部リモージュの磁器の街にあります。13 歳で磁器の絵付け職人見習いとなった彼は、白い磁器の上に繊細な花々を描き、薄く色を重ねて光沢を出す技術を磨きました。この修行時代に培われた、真珠のように透き通る色彩感覚こそが、後の彼の画風の源泉となったのです。
20 歳で本格的に画家を志した彼は、シャルル・グレールのアトリエでクロード・モネやアルフレッド・シスレーらと出会います。彼らは戸外へ飛び出し、太陽の光が水面で跳ねる瞬間を捉えようとしました。『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』に見られるような、木漏れ日の中の幸福な描写は、まさに印象派の真骨頂です。また、この時期の傑作『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』に見られる透明感あふれる肌の質感は、今なお世界中の人々を虜にしています。
恩師グレールから「君は楽しむために絵を描いているようだね」と皮肉られた際、彼はこう答えました。
「もちろんです。楽しくなかったら、絵なんて描きませんよ」
「人生には嫌なことが多すぎるから、せめて絵の中では美しいものだけを描きたい」。この一貫した美学が、後に彼を襲う過酷な運命を支える精神的な背骨となりました。
 
第 2 章:忍び寄る病魔——身体を徐々に蝕んでいく慢性関節リウマチという宿命
ルノワールが身体の異変を明確に自覚したのは、50 歳を過ぎた頃でした。1896 年の写真には、すでに「左中指関節の腫大」というリウマチ特有の兆候が記録されています。そして1897 年、当時フランスを席巻していた自転車ブームの中での落馬事故による骨折が、病状を劇的に悪化させる引き金となりました。
有効な治療がない当時、その後の進行は現代から考えると過酷なものであったようです。指の関節は手のひら側へ折れ曲がったまま固まる「強直」を起こし、自力で開くことができなくなります。1903 年には好きだったタバコさえ、包帯で手に固定しなければ持てなくなりました。
1911 年には脳卒中に見舞われ、左半身麻痺を併発。さらには顔面神経麻痺、リウマチ悪液質による極度の痩せ(削痩)、背中や足にできる激痛を伴う「リウマチ結節」、そして足の壊疽……。晩年の彼は、まさに満身創痍の状態で車椅子に縛り付けられていたのです。
ここで医史学的な視点に触れてみましょう。「関節リウマチは比較的新しい病気である」という説があります。古代エジプトのミイラには見られないこの病が、15 世紀以降でその記録が急増してくることから、近世に増加してきた疾患と考える歴史家もいます。実際、17 世紀以降のフランドル絵画からリウマチを疑わせる変形が描かれ始めます。例えば、レンブラントの『マリア・ボッケノールの肖像』には、指の変形とともに全身性エリテマトーデス(SLE)特有の蝶形紅斑が見られ、リウマチとのオーバーラップ症候群の可能性が指摘されています。
ルノワールを診察した医師の中には、あのゴッホの主治医でもあったガシェ医師の名もありました。当時の医学では、アンチピリンという鎮痛剤と温泉療法以外に打つ手がありませんでした。
 
第 3 章:不自由な手で描く「色彩の奇跡」——相互依存の工夫術
身体の自由を奪われながらも、ルノワールは決して筆を置こうとはしませんでした。彼は、動かなくなった身体を補うために、周囲との「相互依存」という賢明な道を選びました。

●絵筆の固定: 指を動かせない彼は、助手や家族に頼んで、変形した手に直接筆をガゼや包帯で縛り付けました。皮膚が傷つかないよう指の間にクッションを挟むこの工夫は、まさに現代の自助具の先駆けです。

●回転キャンバス: 車椅子から動かずに大作を描くため、クランク式の回転装置を考案しました。これにより、1910 年の『狩人の姿のジャン・ルノワール』のような大きな作品も、手元に画面を移動させて描くことが可能になったのです。

●環境とチーム: 温暖な南仏カーニュ=シュル=メールの「コレット荘」へ移住し、オリーブ畑に囲まれたアトリエで自然の光を取り入れました。

特筆すべきは、彼の闘病を支えた家族や友人たちの存在です。妻アリーヌ、そしてピエール、ジャン、クロードの 3 人の息子たち。さらに彫刻制作を助けたギノやモレルのような助手たち。彼は自分の限界を隠さず、周囲の手を借りることで、一人の力では到達し得なかった高みへと登り続けました。晩年、激痛に顔を歪める彼を見た画家マティスが「なぜこれほど苦しみながら描くのか」と問うた際の名言は、今も私たちの心に深く刻まれています。
「痛みは過ぎ去る。しかし、美しさは残る」
 
第 4 章:現代医学から見たルノワールの闘病と「歴史の進化」
もしルノワールが現代に生きていたなら、彼の手を守ることができたでしょう。彼の時代と現代の治療には、歴史的な断絶とも言えるほどの進化があります。多数の細かな血液検査や関節のレントゲンやときにエコーなどの画像診断を行い診断し、ステロイド・メトトレキサート・生物学的製剤などを駆使して治療、さらには痛みそのものに対する治療選択肢も多岐にわたり、慢性関節リウマチの患者さんが日々の内服薬により症状をほとんど自覚することがないレベルで生活できる、ということは珍しくなくなってきました(もちろんそういった薬を使っても重症の方もおられますが)。現代においてはルノワールのような重篤な変形は、早期発見・早期治療によって防げる時代になってきています。当院でも木曜日にリウマチ専門医が診療しておりますので、もし手指をはじめとする関節になんらかの症状がありましたら一度ご相談ください。
 
第 5 章:結び
ルノワールの最晩年の傑作『浴女たち』や 1918 年の『コンサート』を観る時、そこには病による「制限」ではなく、むしろ不自由だからこそ削ぎ落とされた「生命の本質」を感じます。細かい描写を諦めざるを得なかったからこそ、彼は光と生命力そのものをキャンバスに定着させるという、芸術の究極の境地に達したのです。亡くなる直前、彼は庭に咲くアネモネを描こうとしていました。死の数時間前、最期の力を振り絞って筆を動かし、「もう、もう少し分かってきた気がする」と呟いたといいます。この言葉は、病に蝕まれた肉体を、尽きることのない好奇心と生命の燃焼が超えた瞬間でした。『世界史が病気が変えてきた』という本を以前紹介しましたが、偉大な表現者の人生という「歴史」もまた、病気をきっかけに変わった例として、ルノワールを紹介してみました。
ここまで書いて見直してみると、冒頭の喫茶ルノアールについてのハナシは蛇足な気がしてきました。いつも思いつくままに文章を書いてしまうのが自分のよくないところです・・・。

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