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子どもの頃は親戚の家があった滋賀県でよくクヌギ林でカブトムシをとっていました。

[2026.07.15]

最近中学校理科の教科書を読む機会があるのですが、面白いですね。色々な動物、特に昆虫などの生態について読むと、むかしの虫を追いかけていた小学校時代を思い出して懐かしくなります。なんであんなにカブトムシやクワガタを捕まえるのに夢中になれたのか。不思議です。

理科の教科書やその他の教材で昆虫などの一生を眺めていると、気づくことがあります。それは昆虫の人生、というか "虫生" ですが、これが非常に短いスパンで生命のサイクルを完結させるので、その一生をすべて見ることができる。卵から幼虫になり、幼虫が成長し、蛹になり、やがて成虫になる。そして成虫になった個体は、交尾をし、産卵し、また次の世代へと命をつないでいく。その生き方や生態をみていると、行動のひとつひとつにわれわれヒトに想像力を掻き立てるなにかがあり、自らの生き方や社会の見方を顧みる良い機会になるなぁ、ということ。

これに対してヒトの一生は結構長い。生まれて、育ち、学校に通い、仕事をし、家庭を持つ人もいれば、別の道を選ぶ人もいる。病気をしたり、迷ったり、失敗したり、誰かに助けられたりしながら、何十年という時間をかけて人生が進んでいきます。

もちろん、昆虫の世界を人間の世界と同じように語ることには注意が必要です。昆虫に、ヒトと同じ意味での感情や知性があるわけではありません。彼らは本能に従い、環境に反応し、生き残り、繁殖するために行動しているのでしょう。

それでも、じっと見ていると、どうしても「これは人間の世界に似ているな」と感じてしまう瞬間があります。

カブトムシは、成虫になると急に世界が変わります。幼虫の間は土の中で黙々と朽ち木や腐葉土を食べ、体を大きくすることに専念しています。ところが、成虫になって地上に出てくると、そこにはエサ場があり、オスがいて、メスがいて、争いが始まります。

特にオス同士の争いはなかなか迫力があります。ゼリーの置いてある場所をめぐって、角を使って相手を押しのけようとする。体の大きな個体が力で押し切ることもありますし、小さくても妙に粘る個体もいます。逆に、争いを避けるように端のほうで静かにエサを食べている個体もいます。力勝負では勝てないと見るや、相手がいなくなったタイミングを見計らってエサ場に近づく個体もいます。

すると、こちらはつい思ってしまうのです。

「ああ、強い個体がいる」
「鈍感な個体がいる」
「要領のよい個体がいる」
「やたらと好戦的な個体がいる」
「無理をしない個体もいる」

もちろん、これはヒトによる勝手な見方かもしれません。昆虫自身が「自分は要領よく生きよう」などと考えているわけではないでしょう。しかし、観察している側から見ると、同じカブトムシであっても、行動にはずいぶん違いがあるように見えます。

強い個体は、確かに目立ちます。体が大きく、角も立派で、他のオスを簡単に投げ飛ばす。見ている側としても、つい「王者」のように感じてしまいます。しかし、強いからといって常にうまくいくわけではありません。いつも真正面から争ってばかりいるため、消耗してしまうこともあります。エサ場を守ることに必死で、かえって落ち着いて食べられていないように見えることもあります。

一方で、いかにも強そうには見えない個体が、意外とうまく生きていることがあります。真正面からは争わない。相手がいなくなるまで待つ。少し離れた場所にあるエサを見つける。騒ぎが起きている中央には入っていかず、端のほうで淡々と過ごす。目立たないけれど、結果として長く元気にしている。

これもまた、ヒト社会に似ているように思えます。われわれの世界でも、声が大きい人、力が強い人、前に出る人は目立ちます。競争に勝つ人、結果を出す人、周囲を引っ張る人は、確かに社会の中で大きな役割を果たします。しかし、それだけが生き方のすべてではありません。

争いを避ける力もあります。
タイミングを読む力もあります。
自分の居場所を見つける力もあります。
周囲に合わせすぎず、かといって無理にぶつからず、静かに生き延びる力もあります。

昆虫の世界には、道徳も理想もありません。正しい生き方、立派な生き方、恥ずかしくない生き方、といった概念もおそらくありません。ただ、生きる。食べる。身を守る。子孫を残す。そのための行動があるだけです。しかし、その単純さゆえに、逆に生命の本質のようなものが見えてくる気がします。

生き物はみな、与えられた環境の中で何とか生きようとしています。強い個体は強いなりに、弱い個体は弱いなりに、敏感な個体は敏感なりに、鈍感な個体は鈍感なりに、それぞれの方法で世界に対応している。ある個体の行動が優れていて、別の個体の行動が劣っていると簡単に決めつけられるものではありません。これは、ヒト社会を見るときにも大切な視点のような気がします。

昆虫を見ていると、「個体差」というものを理屈抜きで感じます。同じ環境にいても、同じエサを与えられていても、同じようには動かない。同じカブトムシだからといって、すべてが同じ行動をとるわけではない。

これがヒトなら、なおさらでしょう。ヒトはそれぞれ違います。同じ病名でも、同じ検査値でも、同じ薬を飲んでいても、感じ方も、困り方も、生活への影響も違います。だからこそ医療では、病気だけを見るのではなく、患者さんというヒトを見ることが大切なのだと思います。

カブトムシの飼育ケースを眺めていると、小さな世界の中で、生命のサイクルが淡々と回っているのがわかります。卵が生まれ、幼虫が育ち、蛹になり、成虫になり、また次の命へつながっていく。その時間はヒトに比べれば驚くほど短いものですが、そこには確かに「一生」があります。そして、その短い一生の中にも、争いがあり、工夫があり、個体差があり、偶然があり、生き延びるためのさまざまな形があります。知性があるわけでもない昆虫の世界を見ているのに、なぜかヒトの世界と同じように見える。

それはおそらく、われわれヒトもまた、どれほど知性や言葉や社会制度を持っていたとしても、根本には「生き物」としての姿を持っているからなのだと思います。食べること。眠ること。争うこと。避けること。守ること。選ぶこと。次につなぐこと。そうした生命の営みは、形を変えながら、どの生き物にも流れています。

院長は、自分とは違う誰かを見たときに、すぐに優劣をつけるのではなく「そのひとの個性や自分との違いを "肯定的に認める" こと」を自然と行えるヒトでありたいと思っています。まだまだその境地には達せず、すぐにいろいろと卑近なことを考えてしまうところがあり、全く持って未熟な限りですが、もしそんなふうになれたら少しだけ世界の見え方が変わるような気がするのです。

 

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