ひとつの商品が販売中止になることで昔よく医学部の定期試験で出されていた問題が姿を消すことになりますね。
今世界中で使われている内視鏡。近代的な内視鏡はどの分野で初めて臨床応用が進んだかご存知でしょうか。これは意外かもしれませんが(消化器領域ではなく)泌尿器科領域で、膀胱の内視鏡です。ドイツの医師・ニッチェが当時最先端であったエジソンの白熱電球を先端に取り付け、明るい環境での体腔内観察を可能にしました。1877 年のことです。日本の国産膀胱鏡は 1918 年頃とされ、世界から 40 年遅れましたが、その後は胃カメラの開発などに多大な貢献をしたオリンパス社の発展やそれを支えた数多くの日本人医師の努力・アイディアもあり、今や日本の内視鏡に関する診療技術は世界トップクラスを誇っていると思います。
そんな、「膀胱鏡を使って医師ひとりでできる手術」が泌尿器科には多くあります。内視鏡を使って膀胱内の結石を破砕したり、膀胱がんを切除したり、肥大した前立腺を切除したり・・・。この手術は TransUrethral Resection (和訳で「経尿道的切除」)と呼ばれ、その頭文字をとって泌尿器科界隈ではよく "TUR" と略称されます。この TUR、泌尿器科手術のなかでは極めてメジャーかつ基本的な手技のもので、世界中で多くの TUR 手術が行われています。
手術に使う内視鏡は「レゼクトスコープ」と呼ばれ、その先端から、細い針金を輪にした電極(切除ループ)を出し入れし、電気を流しながら病変を少しずつ切除していきます。TUR における切除様式というのは、「大工が鉋(かんな)を往復させて木を薄く削る様子」にどことなく似ています。ただし、相手は出血する生体組織ですから、「見えること」「切れること」「同時に止血できること」の三つがそろわなければなりません。
TUR は、助手が術野を展開する "開腹手術" とは異なり、術者が内視鏡を持ち、灌流を調節し、ループを動かしながら切除と止血を進めます。もちろん麻酔科医、看護師、臨床工学技士などと協調しつつのチーム医療ですが、手術の質が術者ひとりの技術や経験に大きく依存するという、泌尿器科っぽい手術でもあります。
ところで、この TUR ですが、必ず必要なモノがあります。TUR 手術中では膀胱や前立腺部尿道内に大量の液体を灌流させるのですが、まさにこの「灌流液」です。出血や切除した組織片を洗い流し、内視鏡の視野を保つためです。泌尿器科医は、「水中で電気メスを使って手術をしている」わけです。
ここに、かつての TUR が抱えていた大きな制約がありました。従来の TUR では、「モノポーラ」と呼ばれる電気回路が使われていました。切除ループから流れた高周波電流は患者さんの体内を通り、太ももや臀部などに貼った対極板へ戻ります。ループが組織に触れた狭い部分に電流を集中させることで、組織を切ったり、出血点を凝固したりする仕組みです。ここで「灌流液にはなにを使うのか問題」が発生します。体内で非常に使用やすい "生理食塩水" のような電解質溶液は電気をよく通してしまいます。膀胱内を通電性の液体で満たすと、電流が目的の組織だけでなく灌流液側へ逃げてしまい、従来のモノポーラ装置では安定した切開や凝固ができません。
そのため昔の TUR では、電気をほとんど通さないソルビトール液などの「非電解質灌流液」を使用する必要がありました。非電解質液が選ばれていたのは、それらが生理食塩水より優れた液体だったからではありません。モノポーラという当時の電気手術システムを成立させるための不可欠な条件だったのです。手術そのものは、これらの液体を用いて行うことがます。しかし、組織を切除すると、切除面には多数の静脈が開きます。そこから灌流液(ナトリウムを含まない)が血管内へ大量に吸収されると、血液中のナトリウム濃度が薄まり、循環血液量も急速に増えてしまいます。その結果、低ナトリウム血症、低浸透圧、肺水腫などを起こし、ときに徐脈・血圧変動・意識障害・けいれんなどを生じるリスクがありました。これが、かつての泌尿器科医や麻酔科医が強く警戒した「TUR 症候群」と呼ばれるものです。
そのため手術時間を長くしすぎない、灌流液のバッグを必要以上に高くしない(そうすると体内により大量の灌流液が入りやすくなってしまいます)、前立腺や膀胱を切除しすぎて灌流液を尿路外に溢流させない、患者さんの反応や血清ナトリウムを注意深く観察する――昔の TUR には厳格な作法がありました。院長が医師になった頃はこれらのことを本当に厳しく指導されたものです。
この制約を大きく変えたのが、「バイポーラ」と呼ばれる電気手術システムです。バイポーラ TUR では、電気の出口と戻り道が、切除ループと内視鏡先端部の近い範囲に配置されています。電流は患者さんの全身を通って対極板へ戻るのではなく、手術部位の周囲だけで回路をつくります。そのため、導電性のある生理食塩水の中でも、切開と凝固が可能になりました。この方式を代表する名称が、TURis――Transurethral Resection in saline、「生理食塩水中で行う経尿道的切除術」です。厳密にはオリンパスが展開したシステムの名称です。
日本では 2000 年代以降に普及し、現在では膀胱腫瘍や前立腺肥大症の内視鏡手術において、バイポーラ方式と生理食塩水の組み合わせが広く用いられています。生理食塩水には血液に近い濃度のナトリウムが含まれるため、灌流液がある程度血管内へ吸収されても、従来の非電解質液のような急激な希釈性低ナトリウム血症は起こしにくくなりました。これにより、古典的な TUR 症候群の危険性は大きく低下し、比較的長時間を要する手術にも対応しやすくなりました。
治療効果を保ちながら、周術期の安全性を高める。まさに、デバイスの進歩が医療そのものを進化させたひとつの例です。ただし、「生理食塩水なら何リットル吸収されても安全」というわけではありません。大量に吸収されれば循環負荷や肺水腫を起こし得ますし、塩化物の増加による高クロール性代謝性アシドーシスが問題になることもあります。新しい技術は古い合併症を減らしますが、危険を完全にゼロにするわけではありません。
若い泌尿器科医にとって、TURis は最初からそこにある「普通の装置」でしょう。スイッチを入れれば生理食塩水の中で組織を切ることができ、皮膚に対極板を貼る必要もなく、TUR症候群を現実のものとして経験する機会も少なくなりました。それは非常に幸せなことです。一方で、「昔はなぜ生理食塩水が使えなかったのか」「なぜ手術時間や灌流圧にあれほど神経を使ったのか」を知ることにも意味があります。現在の装置の構造や安全機構は、過去に起きた合併症と、それを何とか減らそうとした先人たちの工夫の上につくられているからです。医療機器は新しくなり、以前の常識は、いつの間にか過去のものになります。しかし、古い知識は単なる昔話ではありません。新しい技術の価値を正しく理解し、万一の異常に気づくための背景知識になります。
「故きを温ねて新しきを知る」。
最新の機器を使いこなすことと、その機器が必要とされた理由を知ること。この二つがそろって初めて、医療の進歩を本当の意味で自分たちのものにできるのだと思います。
ちなみにソルビトール液(商品名: ウロマチック S)はもうすぐ販売中止になるそうです。大学で働いていた頃、泌尿器科の臨床研修に来ていた医学生によく「モノポーラ TUR 手術で用いられる灌流液は?」という問題を出していましたが、今回の販売中止により、もう問われることもなくなりますね。医学の進歩は速く、試験の内容も年々難しくなります。今の学生は勉強すべきことが本当に多くて大変ですが、医師になったらまたさらに学ぶことは増えますので今のうちに「勉強し慣れ」ておいたほうがよいです。とにかく一生勉強なので。
★イラストは Chat GPT に描いてもらったので少し不正確です。
