毎月いちどは必ず年号に触れるとき、それは月末で ◯◯◯◯ をチェックする時間。
クリニックを経営していると月末に必ず向き合わなければいけないものがあります。それがレセプト。レセプトとは「医療機関が保険者に医療費を請求するために作成する診療報酬明細書」のことで、この明細書にしっかりとクリニックで行った診療行為について記載していないと、保険者から支払われるお金が減り、働いた分の「対価」として返ってきません。毎月提出前の月末にはレセプトをしっかりチェックして病名や手技の記載漏れがないように注意するようにしています。これは日本全国どこの施設でも同様でしょう。
このレセプト、例えば今月のものなら必ず「"令和" 7 年 8 月分」と記載されます。平成から令和にかわるときにカルテに「平成 31 年 右腎盂がん手術 ⇒ 令和 3 年 膀胱がん手術」とか書いてあると、手術と手術の間が何年経っているかすぐにわからないので、院長は勤務医時代のカルテを必ず西暦で年を書いていました。
開業医になったあとも西暦で書いていたのですが、先ほど紹介したレセプトのことがありますので、年号と西暦をチャンポンで書くときがあります。そんなときに「レセプトも西暦にしてくれると楽なのに」と不遜にも思うことがあるのですが、年号がもつ歴史的・文化的な連続性や公式文書での識別性などについて思い返して「いやいや、文化として年号が残っているのは尊いことだ」と考え直したりする日々です。
たとえば、48 歳にもなると、ときどき家族から「昭和じゃないんだから」とか「それは平成までの考え方でしょ」とか「もう今は令和だよ」みたいな感じのことを言われることがあります。寂しく感じるときもありますが、これは年号による「世代感覚の整理」につながり、あとで振り返るときに簡単に「時代を分類できる」便利さも兼ね備えています。"いい区切り" として、年号は普通に便利なことだと思います。
ただ、セリフの例で出したように、年号というのは「新しい世代のひとが古い世代をディスる」みたいな時に頻用されることが多いように感じます。
そんなわれわれが抱く「年号が象徴する時代感覚の齟齬」を誰よりも早く作品に落とし込んだのが夏目漱石の名作、『こころ』です。この作品は院長が敬愛するおばあちゃんの富佐子さんが『三四郎』に次いで好き、と言っていた作品でした。富佐子おばあちゃんは神田須田町生まれ、チャキチャキの江戸っ子だったので東京の地名が頻繁に出てくる漱石の作品を好んでいました。
・・・レセプトについての話題からなんだか唐突に漱石とその作品が出てきましたね。最近院長が読み返す機会があったため、語りたくなってしまったせいです。「年号と時代感覚」。このことが物語の解釈をするうえで欠かせない視点となるこの作品を明日は院長の視点で紹介してみたいと思います。
漱石はいつ読んでも心が重くなりすぎることがなく、いいですね。対照的に、太宰を読むと長い時は 1 週間くらい彼の作品から離れがたくなってしまうので、日々忙しい現在は少し敬遠するようにしています。
写真は新潮文庫、『三四郎』です(『こころ』は Kindle に入っているので現在本で持っているこれをかわりに)。令和 2 年 4 月 25 日でなんと 第 157 刷!すごいですねぇ。