医学が大きく大きく進歩するのに "ひとつの偶然" が貢献することがあるので基礎的な実験やいろいろな研究の裾野は広くすることが人類のためになるはずです。
アレクサンダー・フレミング。聞いたことがあるでしょうか。われわれ医師にとってはあまりにも大きな成果を挙げた細菌学者です。リゾチームとペニシリンという、大きな発見を 2 つも成し遂げた人物ですが、今回は後者、世界初のペニシリンについて語ってみたいと思います。
1928 年、場所はイギリス・ロンドン。セント・メアリーズ病院(現在のインペリアル・カレッジ・ロンドンの前身)の細菌学者であったフレミング博士は、休暇から戻って自分の研究室に立ち寄ったとき、ひとつの奇妙な現象に気づきました。
黄色ブドウ球菌がびっしり培養されたシャーレのうちの一つに、青カビが混入しており、そのカビの周囲だけがポッカリと菌が溶けたように消えていたのです。
「これは……カビが何か菌を殺す物質を出している?」
フレミングはすぐさま実験を繰り返し、そのカビが Penicillium notatum という種であることを突き止め、そこから分泌される物質をカビの名前から「ペニシリン」と名づけました。
ただ、フレミングはこの物質の可能性に気づきながらも、それを薬として実用化する技術はなかったのです。ペニシリンを精製(対象となる物質の中に含まれる関心のある物質を得るために,他の物質を除く操作のこと)・量産する方法が当時の技術ではなかなか難しかったのです。
しかし、1939 年以降、オーストラリア人でオックスフォードで研究をしていたハワード・フローリーと、ドイツで生まれですがユダヤ人系のためにナチスが政権をとったあとはオックスフォードの研究者となっていたエルンスト・チェーンらがそのバトンを引き継ぎます。彼らはついにペニシリンの大量生産に成功し、第二次世界大戦中の負傷兵たちの命を救いました。アメリカではこの量産技術を支えた企業のひとつが、のちにバイアグラを生むことになるファイザー社でした。あの有名な「ノルマンディー上陸作戦」中に連合軍兵が携帯していたペニシリンのほぼすべてがファイザー社製であったと言われています。
カビの混入という“失敗”から始まったこの物語は、まさに「偶然が世界を変えた」典型です。
時代は下って 1990 年代初頭。アメリカの製薬大手ファイザー社は、狭心症(心臓の血流が悪くなることで生じる胸の痛み)を治療するための新薬の研究を進めていました。開発された化合物「シルデナフィル」は、一酸化窒素の働きを高めて血管を拡張させる作用があり、心臓の血流改善に期待されていました。
ところが、臨床試験では心臓への効果がさほど見られず、治験は失敗に終わるかに見えました。
しかし、臨床試験には女性も男性も参加していたのですが、男性の被験者たちのみ、なぜか薬を返却しようとしなかったのです。
「服用後に、夜の生活が……改善したような気がするんです」
まさかと思いつつ、ファイザーの研究者たちはこの“副作用”に注目し、勃起不全(ED)治療薬としての開発をスタート。1998 年、「バイアグラ」の名で世界初の経口 ED 治療薬としてアメリカ FDA の承認を受け、発売されました。
その年、全世界での売上は10億ドルを超え、ファイザーは空前の大ヒットを手にします。
ペニシリンもバイアグラも、元々の目的とは全く異なる発見から生まれた薬です。カビの混入も、狭心症の治療も、本来なら「研究の失敗」で終わってもおかしくありませんでした。
しかし、両者に共通するのは、「偶然を見逃さなかった目」と、「それを深掘りした執念」です。
フレミングは、誰もが見過ごすような現象に注目し、なぜそれが起きたのかを徹底的に探りました。ファイザーの研究者たちは、副作用にすぎなかった “勃起作用” に注目し、別の用途として再活用するという発想の転換を行いました。
こういった発想の転換や大きな視野でモノゴトをみること、こそが大きな創薬の核心なのかもしれません。なので、以前どこかの誰かが日本の研究機関がおこなっている数々の試み・挑戦に対して「2 位じゃだめなんですか?」と訳知り顔で言いましたが、「世界初」「前人未到」「当代随一」だからこそ価値が大きいのだと思います。世界における日本の研究業績への評価が以前より低くなってきているというニュースをいろいろなところで聞きますが、研究で業績を挙げるには「研究に打ち込めるだけの十分な資金と研究者の待遇」の改善が必要だと思います。もちろんどんな研究にも湯水のように金を使ってよい、というわけではなく、ピア・レビュー(研究者同士で評価し合うシステム)などを用いてセレクションすることは必要でしょうが。
知り合いが臨床医をやめて製薬会社に勤めているのですが、彼が言うには、現代の創薬は AI やゲノム解析によってかつてないほど “計画的” になっているそうです。創薬の "キモ" となるターゲット(これはタンパクのこともありますし、レセプターのこともありますし、細胞環境など、いろいろな可能性がありえます)を決め、(かなりの部分は)生化学的・薬理学的論理に則って薬を創る。
しかし、そうした時代においても、“偶然” の価値は決して失われていません。むしろ、偶然に気づき、それを科学的に解釈できるかどうかが、創薬の可能性を広げるのだと思います。たとえば、がん治療薬の研究中に見つかった自己免疫疾患への効用。抗肥満作用を期待して実験を繰り返していたら頻尿の改善薬につながった、など。こうした現象を「偶然」として片づけず、意味を見出す力こそ、現代の “創薬者のすぐれた眼力” なのかもしれません。
偶然とは、予期せぬ来訪者。ときに厄介で、ときに貴重。ペニシリンの青カビも、バイアグラの副作用も、すべては研究現場の片隅から生まれました。私たち医療従事者も、日々の診療やデータの中に、そうしたの偶然の種(シーズ)が眠っているかもしれません。何気ない所見、予想外の反応、小さな変化。そこにこそ未来の治療のヒントがある──そう考えると、明日からの外来も、いつも以上にワクワクしてきます。今週もまた頑張ります\(^o^)/