松本清張先生の作品を久しぶりに読んで "プロフェッショナル" と言われる職業の看板を背負っていることにあらためて背筋を伸ばしたくなった日。
松本清張 先生の小説や論考、ノンフィクションが好きです。高校時代に『日本の黒い霧』、特に "下山事件" について読んで夜眠れなくなったことを覚えています。下山事件は 手塚治虫 先生の問題作(とよく言われますが、手塚先生の才気を考えれば必然作でしょう)、『奇子』にも出てきて、この作品もちょうど同じ頃読んだので「作品と作品が自分のなかで偶然リンクする」という、幸せな体験をしたことを今でも覚えています。
松本先生の小説は、どの作品も社会の闇にズブズブ踏み込んでいくところが魅力なんですが、その中でも『霧の旗』は、胸に "グサッ" と刺さる作品です。「復讐劇」として読まれることが多い作品ですが、「プロフェッショナル職」のひとつである医師業をやっている人間には大変 "心にクる" 作品です。
この作品は医療現場においてよく問題になる「救急車たらい回し」等の底流にあるテーマにもつながっていますので、今日はこの作品について
あらすじをざっくりと Wikipedia『霧の旗』を少し改変して紹介します。
時は昭和 30 年代半ば。九州の片田舎で金貸しの老女(⇒ ドストエフスキーを彷彿とさせますね)の強盗殺人事件が起き、本作品の柳田桐子の兄、教師の正夫が容疑者として逮捕されて裁判にかけられる。正夫が第一発見者で、正夫は被害者から生前金を借りており、しかも殺害現場から借用証書を窃取する等、状況は正夫にとって圧倒的に不利なのだが、それでも殺人に関しては無罪を主張する。思いあまった桐子は上京し、同郷出身の高名なの大塚に弁護の依頼を申し出る。だが、高額な弁護費用を工面できないのと、大塚自身の多忙を理由に断られ、失意の内に帰郷する。その後、一審で出た判決は死刑。そして、控訴中に正夫は無実を訴えながら獄中で非業の死を遂げた。桐子はその旨を大塚に葉書でしたためて送る。殺人犯の妹の汚名を着せられた桐子は地元にいられなくなり、上京してホステスになった。
一方、葉書を読んだ大塚は後味の悪さを感じ、独自に事件資料を集めて丹念に読み込んでいくうちに、真犯人は桐子の兄以外にいることを突きとめる。 その頃、大塚には愛人の河野径子がいたのだが、ふとしたことからこの径子に殺人容疑がかかる。だが、たまたま殺人現場の近くに桐子が居合わせており、逃走する犯人の姿を見ていておまけに犯人のものと思われるライターまで拾っていた。径子の無実を証明できるのは桐子ただ一人。
大塚は桐子にライターを自分に渡し、現場近くで見たことをありのままに証言してくれるよう懇願する。だが、兄のことがある桐子は冷たく拒絶する。そして、桐子は大塚の「家庭」と「社会的立場」に向けて、ある“復讐”を始めるー。というストーリー。
この話、すごいのは大塚が法律を破ったわけでも、暴力をふるったわけでもないってこと。彼は弁護士として「やらなくてもいい案件を断った」だけ。つまり、職業上は何の落ち度もない。
だけど、桐子にとってはそれがすべてだった。兄を救えるかもしれなかった、唯一の希望だったのに、冷たく「それは受けられません」と言われてしまった。正しさの裏側にある「冷たさ」。それが、彼女の人生を変えてしまったんです。
さて、この話。
「私は弁護士じゃないから関係ない」と思われるかもしれませんが、院長は「そうも言ってられないな」と感じました。たとえば、最近よくニュースになる「救急車たらい回し問題」。
救急車で運ばれた患者さんが、どの病院にも受け入れてもらえずに何軒も何軒も回されて、最悪の場合は命を落としてしまう──そんな事例が報道されています。
もちろん、病院にも事情はある。
ベッドが空いてないとか、専門医がいないとか、処置が難しいとか、現場には現場の“正当な理由”があるんです。
でも、患者さん側からしたら?
「そんなこと言われても困る、とにかく命に関わるかもしれないから早く助けてよ!」と思う気持ちは重々わかります。
それって、桐子が大塚弁護士に言いたかったことと似ています(公共のインフラである救急というシステムとあくまでも私の事象である弁護士依頼、という違いはあるにせよ)。
ただ、プロフェッショナルというのは「何でもできる」だけではなく、そのときの状況や自身の能力・得意分野等を考慮して「できないと判断する責任」も背負わなければいけない、という意見があるかもしれません。この流れでいえば、「断る」という行為は、それだけで「誰かの人生を(悪い方に)変えてしまう可能性がある」ということを、プロは自覚せよ、ということになるでしょうか。ただし。正直申し上げて現在のような医療が細分化・高度化した時代においてその意見は厳しい・・・。
どんな状況でも患者さんを受け入れろ、というのは(特にウチのような小さなクリニックでは)無理筋ですし、安全を度外視するレベルの患者さんの数を診るなんてことになってしまうと、それこそ「プロフェッショナルとしての仕事」ができなくなる可能性があります。「安全」は医療者として常に最優先されるべき事項であるはずですので。
では大塚弁護士は、いや、院長も含めてプロフェッショナルはどのように対応するのがよいでしょうか。もちろん確定的な答えはないのですが、「どうしても受け入れが難しい」という旨を伝えるときに、その言葉の中に少しでも “関心” "シンパシー" は示すことで、少なくとも患者さんやご家族の受け取り方は変わってくるはずでしょう。
「ウチでは受け入れられないんですが、例えばこの施設に問い合わせてはいかがでしょう」
「(ある程度待てる状況であれば)今すぐに対応できなくても、あと 2 時間したら診察できるかもしれません」
たった一言ですが、それが “プロの関心・優しさ” なのかもしれません。
松本先生が『霧の旗』で描いたのは、たぶん「怒り」や「復讐」よりも、「誰かの無関心によって人生が狂わされてしまうこと」へのやるせなさだったんじゃないかと思います。桐子の人生を狂わせたのは、誰かの悪意じゃない。ただ一人の弁護士が、目の前の SOS に “関心を持たなかった” という、その一点。
そして今。医療の現場にいるわれわれや、社会全体にも、この問いは突きつけられています。プロである以上、正しさだけでなく、人の重みを抱えながら生きていく覚悟が、求められているのかもしれません。スタッフのコンセンサスとそれに基づくマニュアル作成が医療安全の第一歩、とされている現在の状況でこういった "優しさみたいなもの" を言語化するのはなかなか難しいのですが・・・。